第18話 たまゆら
飢えた獣は天性の感覚で異状の匂いを嗅ぎ取り、ほぼ瞬時に警戒レベルを最大まで引き上げたようでした。
私自身にほとんど戦意と呼べるものがなかったことを思うと、彼らの五感と勘の鋭敏さには驚嘆するばかりです。しかしそれ以上に、私の身体に未だこれほどの気力が眠っていたことに驚いていました。
捩れて擦り切れそうな糸を弓の両端に張り、矢筈をあてがい、力いっぱいに引き絞ります。照準はゆらぎなく前方の若いオオカミの心臓に定まりました。握り込んだ弦は指の間を水が落ちるように抵抗なく滑り、イチイの木材が軋むかすかな音とともに、矢は脇目も振らずあるべき場所へと帰っていきます。
放たれた矢が未だ空中にあるうちに、二本目の矢はすでに発射の時を待っていました。視界の右端に、体の向きを変えて退散しようとする耳に傷跡のあるオオカミが見えました。恐怖に駆られて浮き足立った獣を射止めるほど、容易なことはありません。
最も老練で場数を踏んだ最後の一匹は、それを十分に理解しているようでした。私の死角に回り込むように、静かに、しかし速度を落とすことなく距離を詰め、矢を射ち終えた後の数瞬の隙を狙って私へと飛びかかってきます。弓を向ける余裕はなく、回避もできない、恐らく最もすぐれたタイミングの奇襲でしたが、私はとっさに左腕を盾にして防ぎ、彼が腕にしっかりと噛みついたのを見てから右手で喉元に矢を突き刺しました。
最後の抵抗が静まると、私の周りには三匹のオオカミの死骸が転がっていました。
「―――お見事」
すべてを見透かしたような声が降ってきました。
顔を上げると、白い肌に白い髪、白い翼を携えた少女が、白銀の月を背にして私を見下ろしていました。
すべてが汚れ淀んでしまったこの世界の中で、彼女は、ただ一人だけ無垢な高潔さを保っているように見えました。すでに墜ちたこの身では、手を伸ばすことさえ許されないのではないかと思うほどに。
「三日三晩座り込んだままだった人の動きとは思えないわ」
ルチアがそう言うと、身体が現実を思い出したように、あるいはルチアの言葉を嘘にするまいと躍起になるように、身体のいたるところが悲鳴を上げました。
脚は痺れて感覚を失い、肩や背中は逆に過敏なくらいに痛みを訴えています。指先はじんじんと火で炙ったかのような熱さでした。
「……身体が勝手に」
乾ききった喉奥から、私は辛うじてそれだけの言葉を吐きました。
ルチアは白翼を音もなく羽ばたかせ、ふわりと荒涼とした地に降り立ちました。
「そのようね。自力で立てるかしら?」
「無理みたいです」
「じゃあ肩を貸してあげましょう。足を前に出すくらいはできるかしら」
線の細い彼女に申し訳なささえ覚えるほど体重を預けても、私は何とか立った姿勢をとるのが精一杯でした。もし片足を浮かそうものならば、もう片方の足がぽきりと思い切りよく折れてしまうのではないかという気がしました。
ルチアは見かねたように、私の腕を強引に引っ張り、身体を丸ごとその小さな背に負いました。
「向こうに馬車を用意してあるから。そこまではこれで我慢しなさいな」
「……すみません」
ルチアの背中は頼りないほど小さく、背負いきれない足の爪先は地面を擦っていました。
それなのに、どうしてでしょう、私は幼いころ背負われた父様の背中を思い出していたのです。いえ、母様の背中だったかもしれません。遠い記憶の向こうに置いて来てしまったはずの温かさが、確かにここにあるように感じていたのでした。
「ねえ、ルチア」
「なあに、かわいいエリー」
「私は三日も、あそこでああしていましたか」
「ええ。三度日が暮れて、三度日が昇るまで」
「そうですか」
凝り固まった身体と対照的に、私の頭脳はいつもに増して活発に思索に励んでいました。それも、いつまでも整理のつかないぐちゃぐちゃの感情とは全く無関係なところで、冷え切った理性が勤勉に働いていたのです。
「ねえ、ルチア」
「馬車には少しだけれど食料の用意もあるわ。一番近い町までそれで凌ぎましょう。そこから先はまだ考えていないけれど、ひとまずゆっくり休むのが先決ね」
「ルチア」
「当面の路銀の心配はしなくてもいいわ。私も今日や明日に困るような暮らしはしていないつもりだし、この近くにはいくらかツテもないではないから」
私が言おうとすることを、ルチアはすでに分かっているようでした。
それが今するべき話ではないことも、彼女には分かっていたのでしょう。
「だから今は、眠りなさい。何も考えなくていいから、穏やかに……」
ルチアの声音はどこまでも優しくて、穏やかで、遊び疲れた夜の子守歌のように、私の意識を閉ざしていきます。
そのまま、私は眠ってしまいました。
おぼろげな夢の中で、私は、私が生まれた日の安らかで満ち足りた光景を見た気がしました。
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