第17話 曇天
世界の終わりのような夜が明けても、空には陰鬱に暗雲が垂れ込めていました。
「……………エリー? そっちに行くわよ」
ひどく遠慮がちな声がぽつりと聞こえました。
灰を踏みしめる鈍い音に、時折炭になった枯れ枝が折れる乾いた音が混じります。もはやどこにも、生命の音はしません。
「地下室にあった武具類は無事みたい。倒壊に巻き込まれて埋もれてしまってはいるけれど」
「そうですか」
「あと、他の人たちはかなりの部分が逃げられたみたいよ。大半の家には誰もいなかったわ」
「そうですか」
ルチアの報告に相槌を打ちながら、私はほとんど聞いていませんでした。
道具が無事だったのなら掘り起こせばまだ使えます。他の住民の方々が助かったのならそれは大変結構なことです。それで、一体それが私に何の関係があるというのでしょう。
「エリー」
「はい」
「ここは冷えるわね」
「そうですね」
「その体勢、腰が辛くないかしら」
「まだ大丈夫です」
「雲行きが怪しいわ。もうじき雨が降り出しそうよ」
「今さらですか」
「……エリー」
ルチアが何を言いたいかは私にも分かりました。それをあけすけに口にしないのが彼女のやさしさであることも、分かっていました。
「仕方ないでしょう。暖かい暖炉も、座って休める椅子も、雨風を凌げる屋根も、もう何ひとつ残っていないんですから」
「それじゃいつまでそうしているつもりなの?」
「分かりません」
「強情ね」
呆れたような、懐かしむような、そんな柔らかな響きをもった声でした。
ルチアは私のすぐ隣に屈みました。私と同じものを見ているのでしょう。私は、あてのない視線を、他にどこに向ければよいのか分からないでいました。
「埋めるというのなら、手伝うけれど」
「……………いえ、今は」
「そう」
楽観的な見方をしようと思えば、まだできないことはなかったでしょう。
まだどこにも断定的な証拠があるわけではないのです。私の希望的観測を否定するだけの材料はまだ揃っていません。私が絶対に違うと言い張れば、いったい誰にそれを論破できましょうか。
しかしそれはできないのです。
他ならぬ私自身が認めているのです。それがそうであることを、否みがたく理解してしまったのです。
「とりあえず、これは渡しておくわ」
ルチアがそっと私の手元に置いたのは、一本の弓でした。
焦げ煤けて随分汚れてしまっていても、それが誰のものかは一目見れば分かります。弦は張られていませんでしたが、一束の矢と一緒に添えられていました。
「私が持っていても仕方がありません」
「あなた以外の誰が持っていても仕方のないものよ」
最早持つべき人のいないそれは、ただここで苔むし朽ちていくのを待つだけなのでしょうか。それは何だか悲しいことのように思えました。
ルチアは私の脇に弓を置くと、どこかへと去っていきました。
やがて雨が降りました。
控えめにぽつぽつと降り出した雨が、気が触れたように打ち付けるどしゃ降りになり、やがて岩のように厚かった雲に切れ目が入っても、私の目に映るものは少しも変わりませんでした。
やがて夜が来ました。
大地を泥水に浸したかのような闇が私を覆い尽くし、月光だけが優しげに頭を撫でました。星々が一片の憂いさえ知らないような無邪気さで満天に遊び、東の空から昇りくる太陽に追い立てられて空の向こうへ隠れても、私はそこにうずくまっていました。
私は一個の屍でした。
ただの屍ではありません。この地に埋もれる無数の屍の、その一つなのでした。
あれほど生命の気配と音が満ちていた森は灰に帰り、脈を打つものはただ私一人でした。未練がましく鼓動を打つ胸が、何も知らぬまま一所懸命に血液を送ろうとする血管が、いっそ哀れです。私は息をしながら死んでいました。
ルチアはどこにいったのでしょうか。何も言わずに去ったきり、彼女の気配はどこにもありませんでした。私に愛想を尽かしたかもしれないし、この痛ましい場所に居たたまれなくなったのかもしれません。もはやどちらでもよいことです。彼女はもう戻っては来ないでしょう。
黒く、湿った、命のないそれをただただじっと見つめていました。
それは強く強く私の目に焼き付いて、目をつぶってもはっきりと見えるようでした。いえ、実際に目をつぶっていたかもしれません。それももはや、どちらでもよいことです。
どこからか、コマドリの鳴く声が聞こえました。梢を求める小鳥の所在なさげな声が次第に近づいてきて、少しの間辺りをうろうろと飛び回ったかと思うと、最後には私の頭の上を休息の地と決めたようでした。
やがて、命は巡るのでしょう。
倒れた大木が若木の寝床となるように、力尽きた獣の死骸に蛆虫が湧くように、死んだ私も巡りめぐって誰かの命になるのでしょう。ここから一歩も動けない私がコマドリの枝となるのも、その大いなる連環の一端なのです。
この森で紡がれてきたすべての命と、これから紡がれてゆくすべての命のことを想いました。
ルチア曰く、この森はかつて戦争で一面の焼け野原と化したそうです。その時に失われた命は、今度の火災とは比べ物にならないほど大きかったでしょう。しかし長い時間を経て、森は痛ましい記憶を忘れ、私たちの健やかで豊かな森を取り戻したのです。今、ひどく傷ついて立ち直れないかのように思えるこの森も、長い時間を経て、健やかな命をはぐくむ日が来るでしょう。数え切れない命の上に、数えきれない命を積み上げて、しかし決して途切れることはないのでしょう。
だから、私はここで切れてもよいのです。
ここで、終わっても。
コマドリが飛び立ちました。
十分に羽根を休められたのでしょうか、また別の場所を目指す気になったのでしょうか。どうやら、そのどちらでもないようでした。
灰の山を慎重に踏みしめて、熱っぽく湿った息をひそめて、しかしぎらついた気迫と血の気を隠さずに、何者かが近づいてきています。
前方と右方、それから後方左のやや遠く。狩りの布陣です。
恐らくオオカミの類でしょう。火に住処を追われて飢えているのでしょうか。気が立っているようで、喉の奥から鳴る威嚇の唸り声も聞こえてきました。コマドリは身の危険を察知して、休憩も半ばに飛び去ったのでしょう。
私は彼らオオカミたちにも、どこか親しみを感じてしまうのでした。
私も彼らも同じです。同じ森に生き、同じ空気を吸い、同じ水を飲んだ身です。私が彼らだったかもしれず、彼らが私だったかもしれないのです。これまで私は獣の血肉で生きてきました。なればどうして、私が獣の血肉になってはいけない道理があるでしょうか。むしろ彼らがこれほどまで必死に、不撓の意思をもって生き延びようとしていることに、私は希望さえ感じるのです。
オオカミたちは逸る気持ちを抑えて、慎重に間合いを測りながら近づいてきていました。
もとより、既に私は死んでいるのです。
生きようとする彼らに、とうに死んだ私が何をしてやれるでしょう。私はただ黙って、なされるがままに、繋がれていく命に思いを馳せるだけです。いつか長い時の果てに、彼らの残した獣たちがこの広い森を駆けるとき、私もまたそこにいるのです。
私のそんな思いが伝わったのでしょうか、あるいは単に私を脅威でないと判断したのかもしれませんが、オオカミたちは警戒を緩め、急いた足取りで私の方へと近づいてきます。
そしてその中の一匹、最も若く将来有望なのであろうオオカミが勢い余って私の首元に噛みつこうとしたとき、
私の右手は、父様の弓を強く握りしめていました。
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