第16話 落陽

「私ね、また旅に出ることにしたの」


 ルチアのその言葉を聞いたとき、思ったよりも驚いていない自分がいることに気付きました。

 思い出してみれば、彼女ははじめから放浪の旅人であって、私たちの元に滞在しているのは仮の宿りに過ぎません。いつからか私はそれを忘れて、しかし心のどこかではいずれルチアが去っていく時のことを考えていました。

「そう、ですか」

 私の曖昧で不確かな気持ちをそのまま表すように、私の言葉もふわふわと浮いていました。

「ええ。今夜このまま出発するするつもり。アルフレッドにはもう話してあるわ」

「このまま? また急な」

 ルチアは笑ったようでした。

 窓から差し込んでくる強烈な西日が濃い影を作って、彼女の表情はよく分かりませんでしたが、笑ったように見えました。

「本当はもっと前に出ていくつもりだったのよ。でも存外に居心地がよかったものだから、つい長く居すぎてしまったみたい」

 別れの挨拶だというのに、彼女の口調には少しも湿っぽいところがなくて、むしろ朗らかささえあって、それがすごく彼女らしく感じられました。

 だから、私もあまり湿っぽくなってはいけないと思ったのです。

「そう言ってもらえるなら私も嬉しいです。短い間でしたが、どうか、いつまでも息災で」

 別れの言葉を言ってしまえば、すぐにでもルチアは黄昏の空へと飛び上がって、見果てぬ大地の向こうへと消えてしまいそうな、そんな気がしました。

 しかしルチアは、なおも躊躇うように私の方を向いて立っていました。

「どうだった?」

「どう、とは」

「いろんなところを見に行ったでしょう。二人で。最初に訪れたのは結界で守られた地下兵庫で、その次は戦前の二重高楼跡、次に燃油でどろどろになった小さな沼地、それから次は……」

「ちょっと待ってください。その調子で全部回想していくつもりですか」

 滔々と語りだしたルチアを、私は慌てて止めました。

「もっと時間があればそうしたところだけれど」

 もしも十分な時間があれば、ルチアは本当に夜が明けるまで話し続けていたでしょう。私たちの間の思い出を一つ残らず、どんな些細なことも逃さず、事細かに想起して聞かせてくれたでしょう。そうできないのが、少しだけ残念でした。

―――出発を遅らせればいいじゃないですか。

 喉元まで出かけたその言葉を、私は何とか飲み込みました。

 一度引き留めてしまえば二度、二度目があれば三度目を望んでしまうでしょう。そういうことをしないと、私はついさっきの自分に誓ったはずです。

「最後にここに連れてきたのは、ここがルチアのとっておきの場所だからということですね」

「まあ、そうなるわ」

「ありがとうございます。欲を言えば、もう少し爽やかで気分のいい場所だったらなお良かったのですが」

「生憎心当たりがないわね」

 静かで暗い部屋の中に、二人の笑い声が混じり合いました。

 ぐずるように暮れなずむ夕日が、いよいよ空の向こうに完全に隠れようとしているところでした。名残惜しむように、地平線が薄くきらめいていました。

 この太陽が沈めば、終わりです。

「ねえ、エリー」

「はい」

「私と一緒に来ない?」

 ルチアは何気ない世間話のような軽薄さで、そう言いました。

 すっかり感傷的な気分に浸っていた私は、虚を突かれて数秒の間、彼女の顔を呆然と見つめていました。

「そんな冗談、らしくないですよ。どういうつもりですか?」

「言ったままの意味よ。私と一緒に旅をするつもりはない? アルフレッドには既に話してあるわ」

「父様にはって、嘘でしょう」

 私がことさら神妙な調子で言うと、ルチアも神妙な面持ちで私を見返しました。

 逆光の暗がりの中にもはっきりと透徹した輝きを放つその瞳を見れば、彼女が冗談や軽口で言っているのではないことは分かります。

 父様に話を通してあるというのも嘘でないのでしょう。

 しかしそうなると、新たな疑問が生じてくることになるのです。

「……どうして父様が」

「親心ってやつじゃないかしら。子はいつか親の元を離れていく者よ」

「だからって、いきなり旅に出させるものでしょうか。まだ弓のことだって教えてもらっていないのに」

「あなたの腕は既に大したものよ。この森の外に出たって十分やっていけるわ。アルフレッドだってそう判断したということでしょう?」

「でも」

 私はあまりにも唐突な決断の時に、ある種のパニックに陥っていました。

「どうして今なんです。どうしてこんな風に言うんです。心の準備も何もない、どうしてこんなにいきなりなんですか。とにかく、いったん帰って父様と話を……」


 悪いことは重なる、と言います。


 そして本当に悪いことが重なった時、人はただ運命を呪うことさえもできないのです。

 父様のいる村の方を見ようと西側に開いた窓の外を覗き込んだ時、私は今までずっと西日の暮れ残りだと思っていたが、実はそうではなかったことに気付きました。

「エリー?」

 私の様子をいぶかしんだルチアが、私と同じものを見たようでした。

「……………どうして」

 夕日は完全に沈み切って、天球はとうに夜の闇に覆われ尽くしていました。

 なのに西の地辺、私たちの村がある辺りには、夕日のように赤く火が立っているのです。


 炎が立っているのです。


「ルチア!」

 気づけば私は、ルチアの両肩を掴んでいました。

「飛んでください、今すぐ! ルチアの翼ならすぐに!」

「落ち着いてエリー」

「そんな場合ですか! 見えないんですか、村が、村が燃えているんです。父様も母様も、村の皆さんも」

「だから落ち着きなさい。取り乱して事態が好転するわけじゃないわ」

「落ち着いたら事態が好転するんですか!」

 私は居ても立ってもいられず、どうにかして村に戻らなければと、ただその一心しかありませんでした。

「しないわ」

 取り乱しきった私に比して、ルチアの声は、不気味なほどに落ち着いていました。

 唾を飛ばさんばかりの私に少しも怯まず、毅然として私を見据えて言うのです。

 その奥に隠したつもりのわずかな声の震え、動揺の色がなければ、私はルチアに思いつく限りの罵詈雑言を浴びせて駆けだしていたかもしれません。

「決して好転はしない。だけれど悪化を防ぐことはできる。今のあなたがあそこに向かっても、火煙に巻かれて死ぬだけよ」

「っ……でも!」

 彼女の言っていることは正しいと分かっていました。

 自分が冷静さを欠いていることも、ルチアが私のために努めて理性的であろうとしていることも、既に私にできる手立てはないのだということも、頭では分かっていたのです。

「それでも、どうしてもというのなら」

 ルチアは、そんな私のことも分かっていたのでしょうか。

「あそこの近くまでなら、飛んで行ってあげる。でも絶対に下りないし、エリーを離しもしない。それでもいいなら飛ぶわ」

 恐らく、それは彼女にできる最大限の譲歩だったのでしょう。

 返事をするよりも早く、私はルチアの身体に全身で抱きついていました。


「お願い、ルチア」


「分かった。よく見ていて、エリー」

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