眠らない男 5
立っていたのは茶色のスーツに短めのシルクハットを被った男だった。白い手袋をした手でハットをつまみ、会釈をしてきた。
驚いて声をあげてしまったことが恥ずかしくなり、俺は咳払いをしながら軽く頭を下げて一歩横にずれた。いつの間に背後に立っていたのだろう。
男は俺の前を通り過ぎる。片手にステッキをついていて、よく見れば髪は白髪だった。肩くらいまで伸びたそれを、一つに結っている。顔はハットでよく見えないが、どうやら結構な歳のようだ。
コツコツといステッキで地面をつく音が遠ざかっていく。こんな時間にどこへいくのだろう。この辺ではすれ違ったことのない人物だ。スーツはペラペラな綿ではなく、夏だと言うのに分厚い生地で出来ていた。
徘徊老人にしては高そうな服を着ているなと思っていると、ステッキの音がピタリと止んだ。
「徘徊老人とは、随分とひどい言われようだ」
冷たいような、暖かいような、低くてよく通る声だった。俺は驚いて振り返る。先ほどの老人が、半身だけこちらを向いていた。
慌てて口を抑える。もしかして、声に出ていたのだろうか。
老人はゆっくりとこちらを向き、一歩ずつ近づいてくる。
「いやいや、声には出ていませんよ」
俺は思わず一歩後ずさる。老人の顔は相変わらず影になっていてよく見えない。
男はそのままずんずんと進み出て、俺の目の前で静止した。
「せめて老紳士と言ってほしかったものです」
ようやく顔が見えた。白い口髭をたくわえたその顔には、笑みを浮かべていた。
「あの、えっと……すみません」
どうすればいいか分からず、俺は頭を下げた。
「いえ、別に謝って欲しかったわけではありません」
老人は相変わらず笑っている。だが俺の顔を見るなり、その眉尻をぐっと下げた。
「おや、随分とお疲れの様子ですね」
「い、いえ」
老人は俺の顔をまじまじと見た。面倒なやつに捕まったという思いがじわじわと湧き上がってくる。
「こんな時間まで、お仕事ですか?」
老人は懐から懐中時計を取り出した。金色で凝った彫刻が施してある。やはり近くで見れば見るほど、高そうなものばかり身に付けていた。
「ええ、まぁ」
適当に答えてとっとと逃げよう。そう思ったが、なんとなくその場から動けないような雰囲気があった。
「それはそれは、お疲れのところ呼び止めてしまって申し訳ございません」
老人は深々と頭を下げた。そうか、こんな衣装みたいな服でこの少し大袈裟な動きをされるから、現実味がないのだ。老人は見た目からして芝居がかっていて、つい今さっき舞台から降りてきたかのように感じられた。
これはもしかしたら、今まで出会ったことのない厄介なタイプかもしれない。
こんな生活をしているので、俺は夜中に歩くことが増えた。もちろんさっと夕食を買って帰るだけなのだが、それでも駅の近くだと、酔っ払いやホームレスなんかによく絡まれるのだ。
だいぶ慣れてきて、今ではほとんど無視できるようになったが、それでもやはり誰かに声をかけられるのはストレスだった。とはいえこんな住宅街で絡まれるなんて滅多にないので、警戒にスキが出来てしまっていた。
うかつに返事をしてしまったことを後悔している間にも、老人の一人芝居は続いている。
「お詫びにあなたの望みを一つ叶えて差し上げたいのですが」
すっと手が差し出される。調子を乱され続けてきたが、ようやく俺は自分のペースを取り戻しつつあった。
「望みねぇ」
「何でも叶えてみせますよ」
役者はハットを直しながら、不敵に笑みを浮かべる。
「こう見えて私、神様をやっておりますので」
俺はいよいよ面倒になってきていた。胡散臭いセリフによって、疲れが思い出したようにどっと湧いてきた。
「はあ」
「ささ、何をお望みですか?」
「そうだなぁ……じゃあ」
俺は考えることもなく、最近ぐるぐると頭の中を占拠していた思いを告げた。
「眠らなくても生きていけるような体にしてくれ」
こんな老人の戯言にまじめに答えるのも馬鹿らしいが、この手のタイプは乗ってやった方が早く解放されると分かっていた。俺の答えを聞いた老人は、にやりと笑った。
「ほほう、よろしいのですね?」
「ああ、よろしいですよ」
「かしこまりました」
老人は満足げな様子だ。俺は振り返り、そのまま歩き出した。後から追ってくる気配もない。とにかく今はもう一刻も早く帰って眠りたかった。
「それでは、最後の睡眠をごゆっくりご堪能ください」
背後の暗闇から、そんな声がこだましてきた。
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