アブダクション

 説明のつかない不可解な現象というものに、人間誰しも一度は遭遇すると思う。

 僕にも、一度だけそのような経験がある。そしてそれは、僕を決定的に変えるきっかけになった。


 その日も僕はいつも通りに鬱々とした気分でバイト先に向かった。その頃通っていたのは道路工事のアルバイトで、下っ端だった僕は封鎖され片道になる道路で事故が起きないよう、赤く光る誘導棒で車をさばく業務についてた。

 いつものように仕事をこなす。工事している地帯を挟んで向こう側にいる先輩とトランシーバーでやりとりをし、車が来れば棒を振って進めか停止かの合図を送った。この仕事に僕は特にやりがいを感じたことはない。

 やってきた車の中にはたまに頭を下げてくれる神様のようなドライバーがいるがそんなことは滅多になく、大概の場合はめんどくさそうにため息をつくか、こちらを睨みつけてくるのである。ひどい時にはわざわざ窓を開けて文句をつけ、唾を吐いて通り過ぎていく。好きで工事をしているわけではないし僕に文句を言われたってしかたがないのに、一瞬でも足止めをされた苛立ちを遠慮なしにぶつけてくるのだった。


 だが、その頃の僕が毎日鬱々とした気持ちでいたのはそんな仕事のせいではない。その頃の僕はいわゆる行く当てのない若者で、何かを成し遂げようという熱い思いに駆られることがなかったためだ。

 学校を出た後も就職をせず、色んな所でバイトを続けた。お金に余裕があるわけではないが、周りのみんなのようにスーツに着替えて何十社にも履歴書を送り、内定の二文字をもらうために駆け回るというエネルギーがどうしても湧いてこなかったのである。

 もちろんこのように言えば、そんなものはただの甘えだと一喝されてしまうだろう。みんな同じような思いを抱えながらそれでも頑張っていて、本当にそういう”やるぞ”というエネルギーをちゃんと持って就活をしている人の方が少ないかもしれない。

 実家も出ずにこんな日々を送っている僕は落ちこぼれに他ならない。そんな思いが、働いている間ずっと僕の中を悶々と駆け巡っているのだった。

 やりたいことがないわけではない。むしろそれが中途半端にあったからこそ、僕は宙ぶらりんな存在になっているのであった。だが、手を付けようとするととたんに漠然とした不安に襲われる。こんな心意気じゃ到底これで食べていくなんてできない。もっと毎日のめり込むようにやらないと、もっと活動的にならないと……。

 手が止まったまま、ふと時計を見るともうバイトへ行く時間になっている。とにかくもう出なければ。しかし、バイト先には学生も多い。彼らの生き生きとした表情を見るたびに、僕はどんどん自分がどうしようもなくダメな人間であるとか、このままでは未来はどうなってしまうんだろうという思いに支配され、そのうち退職という選択をしているのだった。

 そうして転々とした中では、工事現場はまだマシだった。少なくとも、店長を抜くと僕以外は全員学生などということにはならなかった。


 トランシーバーから通信が入る。振り返り、後ろから来た車に向かって頭を下げる。その日はなぜか、僕の側からは全然車が来ないのであった。

 誘導棒を両手で持ち、ぼうっと空を見上げた。まだ昼を少し過ぎたくらいだというのに雲ひとつない空が薄暗く見えるのは、肌寒い季節になってきたからだろうか。それとも僕の心情がそのまま映し出されているとでもいうのだろうか。

 月がうっすらと浮かんでいるのが見えた。その時、ふいにどこかからキーンという甲高い音が聞こえてきた。僕は顔を前に向けた。その瞬間、僕は目を開けていられないほどの強い光に照らされたのである。

 ヘッドライトをつけた車が突進してきた。僕はそう思った。しかし、来ると思っていた衝撃は一向に訪れる気配がなく、手で顔を覆っていた僕は恐る恐る目を開けた。


 そこには先ほどと何ら変わりない道がただ続いているだけであった。今のは一体何だったのだろう。あたりを見回すが、車どころかどこにも強い光を発するようなものは見られなかった。

 疲れやストレスが溜まって目の前が真っ暗になることはあっても、眩い光に包まれたような感覚になることはあるのだろうか。茫然と立ち尽くしながらそんなことを考えていると、突然後頭部を思い切りはたかれた。

 ヘルメットをしてはいるものの、確実に怒りの感情がこもっているとわかる強さの打撃だった。驚いて振り返ると、反対側にいるはずの先輩が顔を真っ赤にして立っていた。

「てめぇ、今まで一体どこ行ってやがったんだ!」

 工事の音に負けないくらいの怒号が空に響き渡る。その言葉の意味がわからず、僕はしばらく口をぽかんと開けていた。

 先輩は唾を飛ばしながら僕に何かを訴えている。主に僕を叱責するそのセリフからは、どうやら僕が1時間もの間勝手に持ち場を離れ、連絡も取れない状況になっていたという内容がなんとか聞き取れた。

 もちろん僕にそんな覚えはない。しかし、時計を見ると確かについ先ほど見た時から1時間以上は経過していた。僕は大いに困惑し、時計の故障を疑った。だが先輩に見せられた時計も僕のものと同じ時刻を指していたし、騒ぎを聞きつけてやってきた他の先輩たちにも同じように怒られたので、僕は弁明の余地すらなく、とにかく謝らなければいけなかった。

 記憶がないのだから説明も言い訳もすることができない。聞けばちょうど1時間ほど前から突然トランシーバーでの応答がなくなり、不思議に思った先輩がこちらへきた所、僕の姿はなく、トランシーバーだけがその場に放置されていたという。

 仮にぼうっと仕事をしていていつの間にか1時間が経過していたということがあったとしても、トランシーバーを外してわざわざどこかへ出かけ、しかもその間の記憶が全くないというのはありえない。僕は謝りながら、頭がおかしくなってしまったのではないかと本気で考えていた。


 先輩からもう二度とサボるなよと強く釘を刺され、僕は持ち場に戻らされた。本当は僕自身また知らぬ間にふらふらと出かけてしまうのではないかと心配でたまらず、早退させて欲しいくらいだったが、もともと少ない人員で作業しているためしかたがない。クビにされなかっただけマシと思おう。

 僕はいつもよりも気を張って仕事をこなした。幸いそのあとは僕の記憶が飛ぶことはなく、帰り際にもう一度現場監督に呼び出されてしぼられたこと以外はいつもとなんら変わりなかった。

 僕は病院へ行こうかとも思ったが、自分の身に起きた出来事をどうしてもうまく伝える自信がなかったのでやめにした。おそらく医者にこのことを説明すれば、紹介されるのは脳外科ではなく精神科だろう。その後しばらく慎重に生活したが、特にこれといったこともなかったので僕はこの出来事を忘れかけていた。


 思い出したのは、それから数ヶ月経った後のことだ。

 僕はその時、近所の献血センターに来ていた。初めて献血に行ったのはまだ学生の頃で、その時は友人と一緒だった。目的は献血した後に居られる休憩スペースの利用という不純なものだった。

 献血をした後、直ぐに動き出すと貧血で倒れる可能性があるため、しばらくは安静にする必要があるらしい。そのため、献血が終わると休憩スペースに通されるのだ。献血をした人はしばらくそこに居ていいのだが、なんとそこには漫画がたくさん置いてある上に、たまにお菓子や菓子パンなど様々なものが差し入れられるのである。

 友人と僕はとっくに元気になっているくせに、ずっとそこで漫画を読み耽っていた。

 だが、今僕がそこへ通うのは漫画が目的ではない。献血をすることで、こんな僕でも誰かの役に立てるのだなと感じられるからである。

 幸いにも健康体で、僕のように比較的若い人が献血に行くと、センターの人はこちらが申し訳なくなるくらいに感謝をしてくれる。ちっぽけな僕の自己肯定感は、そんな小さな社会貢献にすがっているのだった。

 いつもと同じように入り口から入ると、見慣れた顔のおばさんが僕を見てにこりと笑いかけてくれた。


 毎回のことだが、一応本格的に採血をする前に、少しだけ血を抜く。健康な血液かどうかを検査するためだ。チクリとした小さな痛みが腕に走る。何度やっても針を刺される瞬間はヒヤリとする。

 赤黒い僕の血は、奥の検査室へと運ばれて行った。

 待合室で待っていると、あのおばさんが僕を呼び出した。今日はどの漫画を読もうかなとぼうっと考えながら近づくと、おばさんが妙な顔をしているのに気がついた。まるで僕を同情しているかのような顔つきだった。

 人気のないところへ連れて行かれ、聞き辛そうにそっと耳打ちされた。

「もしかして、何かお怪我かご病気でもされたの?」

 僕は何のことかわからず、ひたすら瞬きを繰り返すばかりだった。だが、差し出された紙を見て、思わず目を疑った。

 そこには僕の血液に関する情報が載っていたのだが、血液型の欄にOと書かれていたのだ。


 中学の理科で習ったことがある。遺伝における優性と劣性の話だ。最近の教科書では違う言葉で説明されているかもしれないが、とりあえず今は置いておこう。優性は遺伝的にあらわれやすい性質で、劣性はあらわれにくい性質というものである。

 血液型がこれを説明するにはいい例だろう。ABO式の血液型では、AとBが優性であり、Oが劣性とされる。両親から一つずつ遺伝子を受け継ぐのだが、例えOの遺伝子を受け継いでいても、その人が同時によりあらわれやすいAやBの遺伝子も持っていれば必ずA型かB型、もしくはAB型になる。

 O型になるのはOOという遺伝子の組み合わせになった場合だけなのだ。

 僕はその時まで、正真正銘のA型だった。

 両親共々A型で、僕も小さな頃から血液型占いはAの欄を読んできた。もちろんそれだけだとO型になる可能性もあるが、なによりもここでかつて献血をした際にも、判定はA型だったのである。

 そんな僕の血液型がOに変わっていた。僕がA型だと覚えていたおばさんがそれを見て驚き、僕に最近輸血をしたのではないかと聞いてきたのだ。


 僕には訳がわからなかった。怪我も病気ももちろんしていない。そしてふと、この前の事件を思い出したのだ。まさか、また僕の知らないうちに何かが起こったのか。そう思って記憶を遡ったが、あれ以来時計の針が知らぬ間に進んでいるようなことはなかった。

 輸血などしていないと話すと、おばさんは僕を信用してくれた。そしてきっと何かの手違いよね、ともう一度採血をし直し、検査をしてくれた。

 しかし、数分後におばさんは青い顔をして再び戻ってきた。どうやら僕の血は何度やってもOと判定が出るらしかった。

「申し訳ないけど、輸血の可能性がある方は献血をご遠慮いただいているの」

 おばさんは弱々しくそう言った。本気ではなく、事務的に伝えているようだった。数回の付き合いだが、僕のことを思ったよりも信頼してくれているらしかった。端から見れば僕が嘘をついているように見えるだろう。僕は僕の言うことをおばさんが信じてくれたことをうれしく思い、お礼を行ってその場を去った。


 これが僕の身に降りかかった不可解な出来事である。この二つのことに繋がりはあるのか、ないのか。僕には到底判断できるものではなかった。

 信じてくれるかはわからなかったが、前に一緒に献血に言った友人にこのことを話してみた。すると、それはアブダクションではないかと返ってきた。記憶のないあの1時間に、僕はUFOに連れ去られ、そこで何者かに全身の血を入れ替えられたのではないかと言うのだ。漫画やアニメ好きな彼らしい説明だった。

 それが本当かどうかは僕には分からないが、仮にそうだったとして、僕はその宇宙人たちに感謝をしなければならないかもしれない。


 血液型が変わるという経験をして以来、僕はうだうだ考えるのをやめた。考えても分からないことが世の中にはあると分かったからである。どんな理由があったとはいえ、僕の記憶の1時間分が欠落し、そして血液型が変わったというのは紛れもない事実なのだ。考えても分からない僕には、ただそれを受け入れるしかない。

 そうして僕は考えるより先に手を動かすことにした。まずは、自分の体験したこの奇妙な出来事をできるだけ詳細に記してみた。それはただの妄想小説で、エッセイで、別に世間に爆発的に認知されたわけではないが、僕にとっては初めて最後まで書き上げることができた作品となった。そうして一つ書いてみると、ストンと気持が楽になったのだ。血液型占いはこの歳になるともう信じてはいなかったが、もしかするとA型だった僕は少し神経質すぎたのかもしれない。

 今、僕は小説家になるという夢のために毎日書き続けている。まだまだバイトも続けなければならないが、O型の僕はもう灰色の時間をぼうっと過ごすことも、何者かにうっかり連れ去られることもきっとないだろう。

 


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