メヌエット

 私は地方のショッピングモール内にあるピアノ音楽教室の事務として働いている。誰もがCMソングを口ずさめるくらい有名な会社で、全国各地に教室がある中の一つだ。

 毎日レッスンを受ける子どもたちがやってくる。事務である私には子どもたちと直接関わるのは毎回の出席のスタンプを押す時くらいだが、楽しそうにピアノがある奥の個室へ向かっていく彼らは見ていてとても微笑ましい。

 子どもが好きというのも私がこの仕事を長年続けられている理由の一つだった。

 

 ただ中には、たまに疲れた様子で私の前を通り過ぎていく子もいる。

 最近の子どもたちは、ピアノの他にも算盤や習字、バレエや水泳など、たくさんの習い事をしているようだ。学年が上がればそれに学習塾が加わり、子どもたちはどの曜日にも学校以外に何かしら行かなければいけない場所ができてくる。

 その分、家でやらなければいけない課題も増えることだろう。ピアノにだって、毎回次は何を練習してきてねという宿題があるのだ。

 遊びたい盛りの子どもたちは、果たしてそれに耐えられるのだろうか。私が子どもだった頃には習い事はあっても、せいぜい週に二、三度ほどであった。後の日は友達の家に遊びにいったり、近所の公園で集まったりしていた。まあ、最近はこの辺にも自由に遊べない公園が増え、また子どもだけで自由に遊ばせておくには不安な事件のニュースも増えてきてはいるが。


 私はある一件の悲しい事件を思い出した。

 小学二年生の女の子が変わり果てた姿で発見されたというものだ。その子はここに通う生徒であった。厳しい親御さんによって様々な習い事を強要され、月曜から日曜まで毎日やることが決まっており、さらには一日に何種類ものレッスンを受けなければいけないということもあったそうだ。

 というのは事件があった後に知ったことで、その子が元気なうちには何も気づいてあげることができなかった。いや、確かに週に二度見かける彼女がどことなく疲れているように見えたことはあったのに、私は声をかけることもしなかったのである。


 ある日、その子はダンスレッスンを受けるために母親の車でスタジオへと向かっていた。そこへ通うのも何年目かのことなので、母親は彼女を玄関先で降ろした後、仕事場へと戻ったそうだ。

 その時、彼女はスタジオの中には入らずに、こっそりと遊びにでかけた。おそらく連日続くレッスンの疲れが溜まっていたのだろう。

 一人で町を歩いていた彼女は、見知らぬ青年に声をかけられた。彼女は警戒したが、気さくに話しかけてくる青年に少しずつ心を開き、ついにゲームセンターへ行こうという誘いにのってしまった。

 二人は手を繋いで近所のゲームセンターへと向かった。目撃した人の話では、その姿は仲の良い兄弟にしか見えなかったという。

 一時間ほど遊んだ後、青年は彼女を人気のない方へと連れて行った。あたりはもう薄暗くなる時刻だ。彼は彼女をひどく暴行した挙句、殺してしまったのである。

 彼女は痛々しい姿で発見され、目撃証言から青年も数日と経たずに捕まった。母親はなぜあの時一緒に中まで行かなかったのだろうと泣き叫んだという。


 その子を担当していたピアノ教師は若い女性だった。事件の後、彼女はかなり落ち込んでしまった。話を聞くと、女の子は数ある習い事の中でもピアノだけは本当に楽しいのだと言っていたそうだ。

 この場でもっと息抜きをさせてあげればよかった。彼女は涙を浮かべてそう語った。どんどん上達する女の子に期待して、彼女はつい多めに課題を与えたり、厳しく指導してしまったりすることがあったそうだ。私は必死になだめたが、数ヶ月後、彼女はこの教室をやめてしまった。


 そんな事件から一年が経った。私は変わらずに教室の入り口にある受付に座っていた。ただ、あの子を救うことができなかったという後悔から、今では前よりも積極的に子どもたちに声をかけるようにしている。


 ショッピングモールが閉まる午後9時に合わせてこの教室も閉館する。遅い時間にもかかわらず、子どもたちは最後の時間帯にもたくさん通っている。塾の後に来る子や、親御さんの帰りが遅いためにここで待っている子などもいる。

 最後の一人を母親がぺこぺこと頭を下げながら迎えに来る頃には、時計の針はだいたい9時を少し回っている。私は笑顔で応える。もう外が真っ暗な中一人で閉店間際のショッピングモールを歩かせるより、ここにいてくれた方がこちらも安心できる。それに、教師たちや同僚の事務が帰った後にも私の仕事はまだまだ残っているのだ。

 先に各教室の戸締りを確認する。長い廊下の左右に防音扉の個室が8つ並んでいる。個室にはそれぞれ違った大きさがあり、小さめのピアノが一つ入るくらいの大きさのものもあれば、エレクトーン数台にピアノも入っている部屋もある。個人レッスンをするコースとグループレッスンをするコースがあるからだ。

 部屋の確認自体はすぐに終わる。清掃や忘れ物の確認などは各部屋を最後に使った教師が行ってくれるためだ。私はさっと戸締りを確認し、最後の日報をまとめる作業へと戻った。もちろん、各部屋には誰も残っていない。


 日報を書いていると、不意に何処かから音が聞こえた。それはピアノの音だった。私は顔をあげる。すると音はしなくなっていた。

 聞き間違いだろと、再び作業に集中した。

 そんなことが数日続いた。

 その音は日に日にはっきりと聞こえるようになっていた。だが、私は不思議と気味が悪いとは思わなかった。その音はたどたどしくもどこか一生懸命で、毎日聴いている子どもたちの奏でるものと変わりなかったからだ。

 日報を書き終え、電気を消して教室に鍵をかけるころには、ピアノの音は止んでいる。帰る頃にはすでにショッピングモールの中もがらんとしている私にとって、その音はいつしか夜の仕事の相棒のように思えてきていた。


 いつものように一人事務作業をしていると、ある日電話が鳴った。時刻はもう直ぐ10時をすぎるところだった。電話に出ると、ここの生徒からであった。どうやら教室に髪かざりを忘れたらしい。手につけていたのを外して、そのまま忘れてしまったようだ。

 それらしいものが届いていなかったので、私は教師の見落としかなと思い部屋に探しに行くことにした。その生徒が使っていた教室の電気をつける。くまなく探すと、確かにすこし見つけづらいところにかわいらしいシュシュが落ちていた。

 私はそれを拾い、部屋の電気を消して廊下へ出た。

 すると、いつものたどたどしいあの音が聞こえてきたのだ。


 私は廊下の奥を見た。L字型に曲がったその先には中ぐらいの部屋がある。音はどうやらそちらの方からするらしい。

 その時、私はふと思い出した。そうだ、あの部屋はあの女の子がよく使っていた部屋ではないか。それにやっと左手と右手が合うようになってきたこの曲は、確かあの子が亡くなる少し前に練習していたものではないだろうか。

 気づいた途端、様々な感情が溢れ出してきた。あの子に謝りたい、お礼を言いたい、がんばったね、怖かったねと抱きしめてあげたい……。一目でもいいのであの子の姿が見れないかと思い、廊下の奥へと進んだ。

 オレンジ色の光が天井から廊下を照らしている。角を曲がると、その奥にある部屋の扉は閉まっていた。中から音が漏れ出ている。やはりここに間違いない。

 私は足音を立てぬよう、そっと扉に近づいた。


 扉には外から中の様子が見えるよう、ガラス窓がついている。部屋の中はもちろん電気が消えている。窓にそっと顔を近づける。オレンジ色の薄明かりが、中をそっと照らしている。

 数台並ぶエレクトーン。その端の壁にぴったりとくっつけられたピアノの前で誰かが動いている。

 よく見ようと顔を近づける。


 そこに立っていたのはクタクタのスーツを着た半透明のおじさんだった。

 中肉中背で、頭の毛が薄くなっているおじさんが、譜面台に置かれた楽譜を見ながら必死に音を奏でていた。

 小さな手でたどたどしく鍵盤を追うかわいらしい姿を想像していた私は、思わずえっと大きな声が出てしまった。

 演奏が止まり、おじさんが振り返る。深いしわの刻まれたその顔は青白く、彼が生前苦労していたのがよく分かった。

 おじさんは、気恥ずかしそうに頭の後ろに手を回すと、すっと消えて行った。


 数ヶ月後、私は他の教室で事務をやっている同期と飲みに出かけていた。というのも、彼女に相談があると呼び出されたのである。聞けば、最近遅くまで残って事務作業をしていると、誰もいないはずの教室のどこからかピアノの音が聞こえてくるらしい。この年齢まで仕事を続けてきたが、ついに頭のどこかがおかしくなったのではないかと彼女は語った。

 私はなつかしい友人にあったような気持ちになった。そして、害はないのでそのまま続けさせてあげてほしいと頼んだ。彼女は持っていたビールジョッキをどんと置き、真剣な顔で今度一緒に病院へ行こうと言ってきた。

 彼に何があったのかはわからないが、ピアノを楽しむのに性別も年齢も関係ないはずだ。どうかメヌエットが弾けますように。

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