ゆらゆら
オレはかつて、ごく一般的な会社でデスクワークをしていた。その時隣の席にはたまたま同期の男が座っていた。そいつは入社当時からぽっちゃりしていて、勤務中にもこっそりお菓子を食うようなやつだった。
オレがそんなんじゃジイさんになる前にでかい病気をするぞと脅すと多少は効いたのか、次の日、毎日通勤電車で鍛えることにしたと言ってきた。
話を聞けば座らずに立って乗るようにするというだけのことだったが、小さい頃から極力動くのを避けてきたと言うそいつにとってはまあまあな心がけだったのかもしれない。
それでも、結局毎日出勤度同時に疲れたと言って菓子を広げるのだから、あまり効果があるとは思えなかった。
ただ、そうしたことによってそいつには一つ趣味ができたそうだ。それは車窓から街を眺めることだった。今までは携帯ゲームに目を奪われてばかりだったのが、ふと外を眺めてみるとそれが案外楽しくて、今では入り口のドア付近を陣取って景色を堪能しているらしい。
オレには都会の住宅地しかないような風景のどこが面白いのかさっぱりだが、そいつ曰く、空いている窓からちらりと見える中の様子やベランダに干してある洗濯物なんかから、そこに住む人がどんな生活を送っているのかを勝手に想像するのが楽しいという。オレはその趣味は倫理的にいろいろアウトなのではないかと思った。
そいつの趣味にそれ以上つっこむ気はなかったが、ある日少し興味を引くようなことを言っていた。それは、とある窓から見えるカーテンがいつもゆらゆら揺れているのだという話だった。
ある日、そいつがいつものように外を眺めていると古びた一軒家が目に入った。印象的なほどボロボロというわけじゃないが、ちょうどその周りにあったのが綺麗なマンションやビルばかりであったため、たまたま目についたのだろう。
二階建てで、とんがった屋根の近くに窓が一個ついている。屋根裏部屋というやつだろうか。そんなことを思いながらぼんやりとその白いカーテンがしかれている窓を見ていたそうだ。
特段変なことでもないのではじめは全く気にしていなかったが、その次に再びたまたまその窓を見た時に、カーテンが揺れたことに気づいたらしい。先に言ったとおりそいつには変な趣味ができてしまったため、カーテンが揺れたことでその中のことを想像してしまったらしい。
古そうな家だけど、誰が住んでいるんだろう。屋根裏部屋は物置だろうか。そうしているうちに、いつの間にかその前を通るたびにその窓になんとなく注目するようになっていった。
すると奇妙なことに、カーテンがほぼ毎回揺れているのに気がついたらしい。確かにいつもカーテンが揺れていると言うのはいわれてみれば少し変かもしれない。だが、動物か何かをその窓の真下で飼っているとか、暑くなってきたからエアコンをつけているんじゃないかとか、いくつか反論できる理由は思いついた。
それを伝えてみたが、あいつは納得しなかった。それ以来、そのカーテンの謎を解くというのが毎日の通勤の楽しみになったらしい。
ある日、そいつが電車に乗っていると、線路の上で急に電車が停止した。一本前の電車で何かトラブルがあったらしい。そいつはチャンスだと思った。なぜなら、停止したのがちょうどあの家の目の前だったからである。
家は線路から少し離れたとこにあって、特段目立つわけでもない。だが、毎日気にして見つめていたあいつにとってはすぐに分かった。
出勤するために会社に向かう電車が止まってしまったら、普通ならイライラしたり焦ったりするとこだが、あいつはそういう遅刻厳禁みたいなタイプではなかった。それで、呑気に家を観察しだした。
そいつはその窓を見た。いつものように白いカーテンが閉められている。じっと見ていると、それがゆらゆら揺れ出した。
きたきた、そう思って目を凝らした。どこか違和感がある。その正体を探ろうと、さらにじっと見つめていた。
そこでふと気がづいた。カーテンだと思っていたのはそうではなく、真っ白なワンピースであったのだ。ただ、奇妙なのはそれが平面ではなく妙に立体的だったことだ。そう疑問に思った瞬間、そいつは全て理解した。
そこにはワンピース掛けてあったのではなく、ワンピースを着た何者かが立っていたのだ。ワンピースは首元から膝の辺りまでが見えていた。そいつは自分の目が信じられなかった。窓の大きさとここからの距離を考えると、そこに立っている人間は2メートルを軽く超えていたからだ。
大きすぎるそいつが窓を覆うように立っていて、ゆらゆらゆらゆら揺れている。そこから目が離せなかった。心臓がどくどく音を立てている。そうしているうちに、ワンピースがぐにゃりと歪んだ。
何者かがしゃがみ始めた。そう思った。長くて黒い髪と、その間の青白い首が上からゆっくり見え始めてきていた。着ているのは女だと思った。
ヤバイ、このままだと目が合うんじゃないか。あれは絶対に見ちゃいけない、見たらいけないやつだ。そう思えば思うほど、なぜかそこから目が離せないでいた。女の顎が見え始めている。
その時、電車がようやく動き出した。その窓はあっという間に後方へと流れていった。そいつは息をするのも忘れていて、窓が見えなくなると浅い呼吸を繰り返した。夏でもないのにびっしょりと汗をかいていた。
遅刻ギリギリで出勤した後、そいつは興奮気味にそのことをオレに話してきた。俺、お化けを見たかもしれないなんて青い顔して言うものだから、詳しく聞かせてもらったのだ。そいつはもう怖くてあの電車に乗れないかもしれないと反ベソをかいてた。
結局そいつの健康に対する気遣いは恐怖心には勝てなかったらしく、それ以来外を見ながら通勤するのはやめたらしい。通勤経路は変えられないし、引っ越すわけにもいかないから、それからもあの電車に乗っているが、基本的には席が空いた瞬間にそこを陣取るようになった。それで、会社のある駅に着くまではじっと携帯のゲーム画面から目を離さないようにしているらしい。
オレとしてはその化け物についてもっと詳しく調べてほしいくらいだったけど、まあ面白い話が聞けただけよかったかと思ってしばらく過ごしてた。
だが、それからそいつの様子がだんだんおかしくなった。
そいつはそれがなきゃ生きていけないってくらいに食べていた間食を全くしなくなり、どんどん痩せていった。それだけ聞けば良いことじゃないかと思うかもしれないが、そうではない。正確には痩せこけていったという感じだった。
顔色も悪くなり、ようと声をかけても全く元気な返事が返ってこなくなった。もちろん心配して色々と声をかけたり飲みに誘ったりした。何か悩みがあるんじゃないかと思ったからだ。
そいつは何も教えてくれなかった。そうしているうちにどんどん弱っていくので、これはヤバイと思って、ある日そいつを問い詰めた。頼むから何があったのか教えてくれ。これでも、同期で隣同士のそいつのことをとてもいい友人だと思っていたのだ。
その時そいつが言った言葉はこうだった。
「あれが来る、あれが来る」
何が来るんだよって聞いたら、ゆらゆらゆれてる、と返ってきた。オレにはその時、何を言っているのかさっぱりわからなかった。
その後、そいつは昔の姿がみる影もないくらい痩せていき、ついには無断欠勤をするようになった。明らかに様子が変だったものだから、オレは上司に何か知らないかと聞かれたん。しかし、うまく答えることができなかった。
数日後、オレは思い切ってそいつの家を訪ねてみることにした。
住所は上司からこっそり教えてもらった。まあ、無断欠勤が続いているのだから仕方がない。たまたま用事があるところの近くだったから、オレは用事を済ませてから直接そいつの家に向かった。
そいつは狭いアパートに住んでいた。当時のオレらの給料から言えばもう少しマシなところに住めそうだったが、生活の質なんてものには無頓着なあいつにとってはまあ住んでそうだなという家だった。
チャイムを押してみる。だが、応答はなかった。どうしようかと思っていると、隣の家の住人が帰ってきた。オレより少し年下の青年で、ガチャガチャ音を立てながら自分の家の扉を開けている。でもそこでふと止まって、躊躇いがちにオレの方を見てきた。
「あの、お隣さんのお知り合いですか?」
「え? ああ、職場の同僚なんです」
「そうですか。その……」
青年は何かを言おうか言うまいか迷っていると言う感じだった。
「あの、実はこいつ最近無断欠勤してて。それで様子を見にきたんだけど。もしかして数日帰ってないとか、そういうの覚えてる?」
青年は意を決したような表情をした。
「変な物音がするんです。毎晩毎晩」
「変な物音?」
「なんか、獣が唸ってるみたいな」
オレはやつの部屋のドアを見た。そっと耳を当ててみる。しかし、何も聞こえなかった。
「本当なんです! それに、何かひっかくような音もするし」
オレは再び部屋の方を見た。
「うるさくて、気味が悪いし」
「あのさ」
オレは青年の言葉を遮った。
「君の部屋、ベランダとか、ある?」
オレは青年の部屋に入れてもらった。畳の上には様々なCDが積み上がっている。立てかけられたギターといい、転がっているヘッドホンといい、音楽好きの貧乏な青年の部屋という感じがした。突き当たりの窓に案内される。
「頑張って身を乗り出せば、ギリギリ見えるかと思います」
オレはせまいベランダに出た。汚れた室外機の横にしきりの板がある。手すりにつかまって、下を見た。二階建ての二階で、真下には砂利が敷き詰められていた。
錆びた手すりから身を乗り出し、隣の部屋をのぞいた。
あたりは暗くなり始めていた。それでも、カーテンが全開のあいつの部屋は中の様子がよく見えた。家具がなぎ倒され、壁や床の至る所に、爪で引っ掻いたような跡が残っていた。床の畳もばたばたに荒らされている。
オレは顔を引っ込めて、不安そうな顔の青年を連れてアパートの大家の元へと向かった。事情を説明すると大家はあっさりと鍵を開けてくれた。
最悪の事態も想定しつつ、オレは部屋の中へと足を踏み入れた。
部屋はどこもかしこも荒らされていた。ところどこと血のつくその傷痕は、人間の仕業というよりまるで獣が暴れ回ったかのように思えた。
でも、あいつはどこにも居なかった。
現場をなるべく保存するため、深くは探索せずに警察に引き継いだ。警察は事件性に巻き込まれた可能性もあるとして調査を行ったが、結局そいつは見つかることはなかった。
あれ以来、そいつがどうなったかをオレは知らない。もう会社もやめてしまったし、それにオレにはなんとなくあいつはもう戻ってこないように思えた。
そいつの部屋からでた後、とりあえず会社に向かおうと電車に乗った。そして、ふとあの奇妙な窓の話を思い出した。場所については深く聞き出していなかったため、オレはどの駅の近くにその家があるのか、進行方向のどちら側にあるのかも分からなかった。それに、外はもうすっかり日も落ちて暗くなっている。
それでも何か分かるかもしれないと、とにかく窓の外を目で追った。
何分眺めていたか分からない。でも、きっとあれだという家が見つかった。古びた家が近くにあったビルの照明にてらされてぼうっと浮かび上がっている。確かに二階建てのさらに上に窓がついていた。
電車が通り過ぎる一瞬のことだから、確信はもてない。思い込みがそうさせたのかもしれない。
ぼんやり浮かび上がる窓の中に、あいつが背を向けて立っているように感じた。
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