回送列車 壱
スチール製の椅子と僕の腿との間には、既ににじめっとした嫌な感覚が広がっていた。真夏の無人駅のホームで僕は1人列車を待っていた。
駅のホームは日陰ではあるものの、今日は全く風が吹いていない。むわっとした生温い空間の中で蝉の合唱が行き場をなくし、充満しているように思えた。
影と日向のはっきりとした境界線がちょうど線路の上にある。その向こうで好き放題に伸びている雑草たちは、気持ちよさそうに風に揺られていた。背後に広がる腹の立たしいほど青々とした空には、存在感のある入道雲が地面から伸びていた。
サビかけたホームの時計は13時を指している。かれこれ30分もここに居たようだ。何もないこんな田舎には、電車は1時間に1本しかやってこない。僕は街へ出かけるつもりだったが、あれこれうるさい親から逃げるため早々に家を出たのだった。
もう少しコンビニにいればよかったな。僕は近所に1つしかない微妙なラインナップの店内を思い返した。商品は生活用品の棚の隅までもう覚えているくらいだったが、ここよりはまだ涼しかっただろう。
僕は手の中で弄んでいた携帯電話をつけた。新着の通知はない。SNSは一通り見てしまったが、適当なタグから飛んで何か面白いものはないかと探した。
興味を引かない短い文章や動画をだらだらスクロールしていると、ふと目の端に動くものがあった。顔を上げると、ちょうど列車が入ってくるところだった。2両編成で、銀色のボディに緑のラインが入っている。
僕は立ち上がる。腿の裏にできているはずの残念なシミが街に着くまでに乾くことを祈った。
列車の中はまあまあ混んでいるようだ。ボックス席も対角線上に向かい合って人が座っていた。
開閉ボタンに手を伸ばす。テレビでよく見る都会の列車はホームに着けば勝手に扉が開くのだが、人の少ない地域の住民にはわざわざこの工程が必要だった。
ボタンを押す。鳥肌が立つくらいの冷気を期待した。
しかし、扉が開かない。もう一度、しっかり力を込めて押し込んだ。しかし、やはりボタンは動作しない。
故障かよと思い中を見ると、涼しげな車内で人々はそれぞれ思い思いの過ごし方をしているようだった。携帯を見る女性、新聞を広げるおじさん、小さな子供は中吊り広告を口を開けてぼーっと見つめている。僕に気づいている人は居なさそうだ。
蝉がわんわん鳴いている。
仕方なく、僕は1つ隣の扉へ移動した。
ため息をつき、緑色に着色されたボタンを押す。しかし、こちらもまた扉が開く気配はなかった。僕はいよいよ苛立った。なんだよ、利用客が少ないからってちゃんと整備しておけよ。
ふと顔をあげると、反対側の扉に寄りかかるようにして乗っている男性が見えた。年齢は同じくらいだ。僕は扉の窓ガラスをコンコンとノックした。
携帯を見ていた男は顔をあげた。そして僕と目があった。僕は右手でボタンを押しながら左手でノックを続ける。男性ははじめぽかんとしていたが、”あけて”という僕の口の動きを見て状況を理解してくれたようだ。軽く勢いをつけて姿勢を直すと、こちらに歩み寄ってきた。
その瞬間、けたたましい笛の音が横から飛んできた。
「ちょっとお客さん!」
驚いてそちらを向くと、車掌が運転席の窓から身を乗り出していた。
「動くから、離れてください」
「は? 乗ろうとしてんじゃん」
「何言ってんの、乗れるわけないでしょ」
意味がわからず前を見た。すぐ目の前にあった顔にぎょっとして思わず一歩後ずさる。しかし、よく見ればそれは自分の顔であった。
列車の中は真っ暗で、その窓に僕の顔が反射していたのだ。
「次の電車、すぐ来ますから」
車掌は少し苛ついた声を出し、運転席へ引っ込んでいった。
僕は何が起こったのか理解できなかった。
真っ暗な列車はゆっくりと動き出す。行先表示は確かに回送になっていた。
明るい車内も、人々も、何よりあの男性も見間違いではないはずだ。
冷たい風がホームに吹き抜けた。びっしり汗をかいた背中にTシャツが張り付く。
僕は自分の頬をつねってみた。蝉の声が少し遠くから聞こえてくる。
ホームを出た列車はそのままトンネルの中へと消えていった。
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