髪の毛 2

 あれから数ヶ月が過ぎた。娘は日に日に成長し、ついに歩けるようになった。その途端、私の苦労はさらに倍増した。娘は興味のあるところへどこでも一人で行けるため、一瞬でも目を離せばどこに飛んで行くか分からない。

 外に行く時はギュッと手を握るのだが、子供の力は思っていたよりも強い。振り解かれないよういつでも油断は禁物だ。

 そんな日々に押し流され、私はあんな気味の悪い出来事のことなどすっかり忘れてしまっていた。


 ある日、私はリビングで洗濯物を畳んでいた。窓の外にはどんよりとした雲が広がっていて、しとしとと雨が降っていた。部屋干しの生乾きの匂いが気になったが、梅雨に入ったのだから仕方ない。

 娘は目の前で遊んでいた。たまに声をかけても気づかないほど、昔からのお気に入りの積み木に夢中になっているようだ。娘はそれで一生懸命お城らしきものをつくっていた。その表情は真剣そのものだ。

 ふいに、鼻にムズムズとした感覚が訪れた。大声を出しては娘が驚いて泣き出してしまうかもしれない。私は顔を背けて、なるべく小さくおさまるように堪えながらくしゃみをした。慢性的に鼻炎が続くこの鼻は、おそらくタオルか何かの細かい繊維に反応したのだろう。


 一度耳鼻科で粘膜を焼いてもらおうかな。そんなことを考えながら再び顔を前に向けると、すぐそこにいたはずの娘が居なくなっていた。

 あたりを見回すと、娘はカーペットの隅のほうでこちらに背を向けて座っていた。積み木に飽きてしまったのかな。そう思ったが、なぜか突然そわそわして落ち着かないような気分になった。微妙な空気の違いというか、何らかの違和感を察知したのだ。

 娘の背中が震えているように見える。私は娘に声をかけた。しかし、返事はない。普段ならいつものことかと気に留めないのだが、今日はなぜかそれで終わらせてはいけないような気がした。

 立ち上がり、名前を呼びながら娘に近づく。しかしやはり返事はない。その代わりに雨の音に混じって、ヒューヒューというか細い風の音が聞こえてきた。


 娘の顔を覗き込み、思わず叫んだ。

 娘は顔を真っ赤にして、口をぱくぱくさせていたのだ。今にも白目をむきかけている。

 明らかに異常事態だ。私はすぐさま携帯で119に連絡した。

 取り乱しそうになるのを必死に堪えて住所と状況を説明し、スピーカーモードにしたまま言われた通りの処置を娘に施した。しかし娘の容体が良くなることはなく、悪くなるばかりに見える。必死に名前を呼んだが、意識がだんだん遠のいているようだった。

 その時、外からサイレンの音が聞こえてきた。私は玄関へ走った。電話から3分もしないうちに救急車が到着したのだ。

 娘を隊員に渡し、電話越しに言われた通りに処置をしたと伝える。すでに意識がなくなっていた娘はすぐに病院に運ばれることになった。

 救急車の中で必死に思い出そうとした。娘はおそらく喉に何かをつまらせたのだが、何か飲み込んでしまいそうな物は周りにあっただろうか。積み木は口に入れるにしては大きすぎるし、洗濯バサミのような細々としたものは決して娘のそばには置かないようにしていた。

 慌ただしく動く隊員たちが、何か呟くたびに心臓が止まりそうになった。娘の横たわるベッドの方からは、相変わらず何も聞こえてはこない。


 娘はすぐ近くの病院に運び込まれた。引っ越しの際に旦那と近所を散歩をしながら、もし何かあったらここに運ばれるのかななどと呑気に話していた病院だった。

 待ち構えていたストレッチャーにのせられて、娘は処置室へと運ばれて行った。ぐったりと青ざめた娘を見送り、その場で崩れ落ちそうになるのを必死に耐えながら旦那に電話をかけた。


 職場にいた旦那は上司に事情を説明し、病院へすっ飛んできた。一人でガタガタ震えていた私を見つけ、旦那が走り寄ってくる。私は今にも倒れそうだった。何があったと思わず大声になる旦那に、覚えているかぎり詳細に先ほどの出来事を説明した。旦那はごくりと唾をのんで処置室の扉を見つめたまま、何も言わずに椅子に腰を下ろした。

 その後は二人でただ黙って待つばかりだった。


 閉ざされたその扉は、中々開くことはなかった。いくらなんでも遅すぎるんじゃないか、と旦那が呟いた。私もそう思った。娘が運ばれてから、一体どれだけ時間が経ったのだろう。

 いてもたってもいられず立ち上がると、ちょうどそのタイミングで扉が開き、医者らしき人が出てきた。40代くらいの小柄な男性だった。

 私たちはしがみつくよう勢いでその人に迫った。飛びかかられる前にその人は私たちを手で制した。きっとこのような状況には慣れているのだろう。

 私は開きかかったその医者の口から、最悪のセリフが飛び出すのではないかと息を止めた。


 娘さんはご無事ですという言葉に、ついに地面にへたり込んだ。頭上では旦那の安堵した声が聞こえてきた。よかった、本当によかったと思うと、涙が溢れてきた。

 しかし、まだ面会は少し……と言葉を濁されて、再び恐怖に体を支配された。

 もしかして、数分間酸素が回らなかったために脳のどこかに障害が残ってしまったのではないか。旦那もそのことを察知したようだ。私は旦那の手をかりて、しがみつくようにして起き上がった。どんな話でも親ならば、しっかりと受け入れなければならない。

 短時間で覚悟を決め、医者に続きを促したが、彼はなかなか続きを話そうとしなかった。苦虫を噛み潰したような顔をしたまま口をもごもごさせているのだ。しっかりしてくれと思わず叫びそうになる。


 すると突然、背後から声をかけられた。

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