髪の毛 3
「ちょっとお話いいですか」
そう言って声をかけてきたのは2人組みの男だった。一人は頭が灰色がかった60近いだ男性で、もう一人はまだ20代にも見えるガタイのいい青年だ。二人はこちらを見て一瞬顔を見合わせた。
医者に今にも飛びかからん勢いで詰め寄っていた私たちはぽかんとした顔で振り返った。このタイミングで話しかけられるなど微塵も思っていなかったからだ。
しかし、若い男の方が黒く小さな手帳を開いて見せたことで彼らが何者かが分かり、私たちの間にさっと緊張が走った。ちらりと隣を見ると、医者は難を逃れたと言わんばかりにほっとした顔をしていた。
娘の詳しい容体も聞けないまま、私たちはそれぞれ別室に案内された。
旦那と共に部屋に入ろうとしていたところを、奥さんはこちらへと制されて、私はさらに奥にあった部屋へと通された。
小さな会議室のような場所で待っていると、入ってきたのは先ほどのベテラン刑事だった。もう一人、先ほどの彼とは違う若い男性を連れている。
ベテラン刑事は私の向かいの席に座った。若い男の方はその背後で立ったままだ。そのせいか、重々しい空気が漂っている。
私はもちろん緊張していたが、それよりも娘のことが心配で、どうして早く合わせてくれないのかという苛つきの方が大きかった。この人たちに何か疑われているのはその時々感じる鋭い目線から分かっているが、何もこのタイミングでなくていいではないか。
せめて娘に一目でも会いたかった。
しばしの沈黙の後、ベテラン刑事は口を開いた。
「娘さんが病院に運ばれるまでの経緯を、詳しくお願いできますかね」
薄々感じていたが、やはり予感は的中していた。この人たちは私たちが娘を虐待していることを疑っているのだ。
刑事のぶつしげな言い方にも腹が立った。こういう時はまずそれとない挨拶からはじめて気づかれないように徐々に娘の話題へと移行していくものじゃないのか。旦那に言えばきっとドラマの見過ぎだと笑われるだろうが、今の私にはどうしても我慢ならなかった。
でも、ここでぶっきらぼうに答えても、この人たちの疑いを加速させるだけだ。ベテランの方がこちらへ来たということは、より疑われているのは旦那ではなく私のほうだろう。専業主婦でつきっきりで娘のそばにいるのだから当たり前だ。
私はなるべく悟られないよう、大きな深呼吸を一つ行った。何も悪いことはしていないのだから、ありのままの自分の気持ちを表現すればいい。娘のことが心配で仕方ないという母に徹しよう。本当のことだから、演技くさくもならないだろう。
私はここにくるまでにいろんな人に話した、”事故の”経緯について語った。
何度も話しているので、娘の周りに何が落ちていたかや自分がその時何をしていたかなどを詰まることなくすんなりと伝えることができた。若い男は必死にメモをとっている。ただ、時々意味ありげな視線をこちらに向けてきている。ベテランの方はじっと私の目を見つめていた。
もう大丈夫だと思っていたのに、私は話しているうちにだんだん娘が運ばれていく時の感情が思い出してしまっていた。気づけば目には涙が溜まっていて、もう我慢ができなくなっていた。
「だから早く娘に会わせてください! あなたたち、私が娘に何か飲み込ませたとでも思ってるんでしょう? それで喉をつまらせたとでも」
立ち上がり机を叩きながら話す私は、もう自分自身を止められなかった。
「こんなに愛しているのにどうして疑われなきゃいけないんですか! 一緒にいたのに事故を防げなかった責任はあるかもしれないけど、それがどうして警察なんかに責められなきゃいけないのよ!」
金切り声に近くなった絶叫を、ベテラン刑事は手で制した。私はそれ以上言葉を続けることができず、とりあえず席についた。
刑事はすっと手を机の上で組んで、ゆっくりと口を開いた。
「奥さん、もちろんあなたのいうことは正しい。でも、状況が状況だったからには我々はあなたたちを疑わざるをえないんです」
その言葉に、またふつふつと怒りが湧いてきた。
「はぁ? どんな状況だっていうんですか!」
「娘さんが何を喉につまらせたか、ご存知ですか」
男がゆっくり言い放つ。そのセリフに特別な感情の色は見られなかったが、それ以上取り乱すことを許さないような、そんな圧があった。やはり本物の刑事だと直感でそう思った。
「分かりません。娘の周りにあったのはせいぜい積み木ぐらいで。でも、あれを飲み込むなんてできません」
「ええ、積み木ではなかった」
「でも、他に思い当たるものは本当に何もないんです。あの子は何でも口に入れてしまうから、特に注意して細かなものは手の届かないところに……」
「ねぇ奥さん」
刑事は私の言葉を遮った。何か確信的な言葉がくると、肌で感じた。
「最近美容院に行かれたのはいつですか?」
突拍子もない質問に、思わず気の抜けた声がでた。この男は一体何を言っているんだ。
でも、これで先ほどから感じていた違和感の正体に気がついた。そう、それはこの男たちに最初に会った時からずっと感じていた。
彼らは時々視線が合わないことがあった。私は必死に話しているのだからちゃんとこっちを見てよと不満に思っていたのだが、彼らは時々、私の話よりも私の顔の上の方に興味があるようだった。
彼らは私の髪の毛を見ていたのだ。
「そんな質問が、何か関係あるんですか」
「はい、とても重要なことです」
そう返ってくることは分かっていた。でも、それがどう関係しているのかは全く見当もつかない。とにかくここは正しく答えるべきだろう。
「たしか、一ヶ月前だったと思います」
若い男は先ほどよりも熱心に何か手帳に書き込んでいるように思えた。先ほどまでのはただの聞き込みで、やっと取り調べが始まったという顔つきだった。
ベテラン刑事は小さく頷きながら続けた。
「なるほど。その時、その髪型にされたんですか?」
「え?」
刑事はすっと手を私の方へ差し出してきた。
「その、茶色で短い髪型に」
アッシュブラウンなんて言葉は、おそらくこの還暦に近い男性は知らないだろう。ただ、せめてショートヘアと言って欲しかった。
「ショートなのは大学以来ずっとで、この色に染めたのは旦那と結婚する少し前からです。長いのは鬱陶しくて」
そう答えると、刑事は難しい顔をして腕を組み、黙り込んでしまった。
「あの、何か問題でも? そうだ、何だったら証拠の写真もありますよ」
私は隣の机の上に置いていたカバンの中から携帯を取り出して、写真を投稿するSNSのアプリを立ち上げた。自分のホーム画面に移動させ、それを彼らに見せる。
目配せをされた若い方の男がそれを確認しに来る。私は彼に携帯を渡した。
しばらく画面をスクロールしていた彼は、手を止めて携帯を返すと自分の上司の方を見た。
刑事は若い男と視線だけで会話しているようだった。そして彼が頷くと、こちらをくるりと振り返り、淡々と話し始めた。
「娘さんの容体については何も聞いてないんでしたよね」
「そうです」
私は食い気味に答えた。刑事は一呼吸おき、さらに言葉を続けた。
「娘さんはやはり喉に物をつまらせてました。あと一歩遅ければ脳に何らかの障害が残るところだったでしょう」
その言葉に、私は一気に緊張を解かれたような気持ちになった。心の底から安堵が湧き上がって、今にも涙が溢れそうだった。
「じゃあ、娘は無事なんですね」
「はい、もうすぐ意識も戻るだろうと担当医が言ってました」
担当医というのは、先ほどのもごもごとしていたあの男性医師のことだろう。
「ただ問題がね、娘さんが何を喉につまらせていたかということです」
ここにきて、刑事の様子が変わった。何かを言おうか、言うまいか悩んでいるという顔だった。私は続きを促した。
「何がつまっていたんですか」
しばらく沈黙が続いた後、刑事はこう言った。
「奥さん、私は長いことこの仕事を続けてきました。だから嘘を言っているやつは大体わかるんです。”刑事の勘”とよく言われますが」
彼は机に身を乗り出すようにして、私を見つめた。
「あなたの仰ることには嘘はない。あなたは白だ。私の”勘”はそう言ってます。もしも先ほど話してくれたことが全て嘘なら、あなたは大した演技力の持ち主でしょう」
刑事は少し笑い気味にそう言った後、険しい顔に戻る。
「ただ、状況だけ見ればどうしても疑わざるをえないんです」
「だから、何がつまっていたんですか」
どうも先ほどから煮え切らない態度をとる人が多い。私はまた苛立ち始めていた。無事と分かっていても、一刻も早く娘の顔を見たいのだ。
刑事は腹を決めたという顔をして、私の方を見た。
「髪の毛です」
「髪の毛……?」
一瞬、何を言っているのかがわからなかった。ただ一方で、私の脳裏に何かの記憶がかすめたような気がした。それが何であるかの形が掴めないままに、彼はその先を続けた。
「はい。黒くて長い髪の毛です。それも一本や二本じゃない。何十、何百もの束になった髪が、ゴンゴンに固められた状態で入っていたんです。私も実際に見せてもらいましたが、なんでしょう……何回も縛ってその結び目を大きくさせていったような、そんな形状でした」
私の意識は半分その話に向けられていたが、もう半分は別のところにあった。自分の中の深いところに隠していた、そんな記憶にたどり着こうとしていた。
「大きさで言えば、ゴルフボールをもう少し大きくしたくらいですかな。それが娘さんの呼吸を邪魔していたわけです。あれはね、奥さん」
突然呼ばれて私の意識のもう半分は、こちらに戻ってきた。
「娘さんが自分で飲み込んだんじゃない。何者かに詰め込まれたんです」
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