眠らない男 6
久しぶりに気持ちの良い目覚めが訪れた。
昨日まではまるで肩に何かが重くのしかかっているように感じていたのだが、それがきれいさっぱりなくなっている。胃のあたりの変な気持ち悪さもない。十年もの眠りから覚めたような気分だった。
寝過ぎたのではないかと思わず時計を見たが、針はいつも起きる時刻を指している。洗面台に行き鏡を見ると、昨日まで全体的に黒くくすんでいたのだが、顔色がよくなっていた。目の下のくまも無くなっている。
昨夜は本当に心底疲れていたから、いつもより深く眠ることができたのだろう。俺は夕飯を食べ損ねたことを思い出し、キッチンへ向かった。
朝に食欲があるのも久々だった。トーストを焼き、バターをのせる。本当はコーヒーが飲みたいところだが、せっかくの朝にあの香りで嫌なことを思い出したくはない。紅茶のティーバッグを取り出し、マグに入れてお湯を注ぐ。頑なにずっとコーヒー派だったが、最近紅茶も悪くないと思い始めていた。
出社して朝清掃が終わると一番に、昨日仕上げた書類を部長の机に持っていった。部長はそれと引き換えるように新たな仕事が渡してきた。それはいつものことだったが、今日はなぜかそれほど嫌な気分じゃない。
渡されたのは相変わらずあくびが出るような雑務ばかりだったが、疲れがなくなったことで集中力が戻ったのか、ここ数日と比べて半分の時間で終わってしまった。
なんかついてるな。そう思いながら次々と仕事をこなしていく。気がつけば、定時を少し過ぎた頃には全てが仕上がっていた。
部長の様子をうかがう。奴はこの後の飲み会が楽しみでソワソワしているようだ。数人の部下に声をかけている。立場上断れなさそうな人たちが、なんとも微妙な顔をしている。
特に新たな仕事をふってくる様子はなさそうだ。何か思い出される前にとっとと帰ろう。俺はなるべくさりげなく荷物を鞄に詰め始めた。
立ち上がりふと振り返ると、同じように帰り支度をしている高円寺と目が合った。少し驚いたような顔をしている。もう帰るのか、そう言っているようだった。確かにこんな時間に帰るのは何ヶ月ぶりだが、それが当然とでも思っていたかのような態度に、少し腹が立った。
俺はふいと目を逸らすと、全体に向けて挨拶をしてさっさと職場を後にした。おそらく他の多くの人たちも、高円寺と同じような顔をしていたことだろう。でもそんな顔を拝むのも、浮かれた部長に声をかけられるのもごめんだった。
外に出ると、まだ空が明るかった。俺はなんだかワクワクした気持ちになった。今夜は久々に外食でもしようかな。そう思い、自宅に帰る途中にある繁華街の駅で降りた。
金曜日ということもあり、会社帰りらしき団体がちらほらと横を通り過ぎていく。おそらく彼らの中にも面倒な上下関係があるのだろう。
俺は悪夢の歓迎会以来飲み会には一度も参加していない。そもそも仕事が片付かずその時間に間に合わないというのもあるが、もうあんな思いはこりごりだ。
休み時間に部長が昼食に立つと、たまにどこからともなく愚痴が聞こえてくる。その内容はこちらまで食欲がなくなりそうなものばかりで、飲みの席でも部長は相変わらずという感じらしかった。
仕事という大義名分によってそれをサボれるので、そこだけはありがたいと思っている。
”飲みにケーション”というわけのわからない単語を部長は信じているようで、毎回付き合っている人はやはりどこか仕事でも優遇されているように思えた。だから、毎回不参加の俺はどんどん奴の中での”評価”が下がっていくのだ。あんな地獄に参加するくらいなら別にいいと思っているが、あの後輩が俺よりも優遇されているということもあるので、納得しているわけではない。
ちなみに不参加組でも高円寺だけは例外で、飲みに関係なくそれなりに評価されている。それだけ出来がいいのだろうとは思うが、そういうところも腹立たしい。
しばらくウロチョロした挙句、最初に目をつけた安い中華屋に入った。とりあえず生ビールと餃子を頼んだのだが、それで食欲に火がついたのか、そこからさらにスタミナ定食をぺろりと平らげてしまった。
外に出ると星空が広がっていて、ほろ酔いの俺は気分良く自宅へと戻ったのだった。
シャワーを浴び、ベッドに腰掛ける。寝ようかと思ったが、時刻はまだ11時だ。部屋を見渡した俺の目に、埃のかぶったゲーム機がとまった。
ティッシュで埃を取り除き、電源を入れる。ピピッという起動音がしてゲーム画面が立ち上がった。入っていたソフトはモンスターを狩るゲームだった。大学時代、友人と共にかなり熱中してやっていた記憶がある。
久々にそれを始めてみると、いくつかアップデートがあるようだった。俺はそれを待つ間、キッチンへ行って酒とつまみを物色することにした。
ごちゃごちゃしたキッチンの奥から、ずっと前に買ったイカそうめんが発掘された。賞味期限が切れてすぐくらいだが、イカなので多分大丈夫だろう。
イカと缶チューハイを持って戻るとちょうどゲームがスタートできるところだった。どかりと床に座って酒を一口飲み、コントローラーを握った。
そこからはゲームにのめり込んでいた。やればやるほど、当時の記憶が鮮明によみがえってくる。数戦だけ一人でやって感覚を取り戻した後、インターネットをつなげた。最大5人まで同時にプレイできるのだ。
少し古いゲームなので誰もいなかったらどうしようかと思ったが、まだまだ人気があるようだ。俺はヘルプの信号を出している見ず知らずの人のもとへ次々と駆けつけて、モンスターを狩っていった。
金曜の夜だからか、プレイしている人数はだいぶ深い時間になっても全く減る気配がない。
俺の前にはチューハイの缶が3つ転がっている。いつもならこれだけ飲めば、寝落ちていてもおかしくないのだが、今日はそんなこともなさそうだった。すでにいくつものクエストに赴いていたが、まったく退屈に感じなかった。
次はどれに行こう、どの武器で狩ろうとやっているうちに、外がぼんやりと明るくなってきていた。
日の光が窓から差し込む頃、俺のいたパーティが解散したのでそこでゲームを閉じた。外からは車の音や雀の鳴き声が聞こえている。眠たくはないがずっと同じ姿勢だったので流石に疲れを感じて、大きく伸びをした。そして、そのままベッドにひっくり返った。
ストレス発散とは、こういうことを言うのだろう。俺の中に溜まっていた半年分くらいのそれが、一気に解消されたように感じた。こんなに有意義で楽しい休日の始まりは、本当に何年ぶりだろうか。俺はそのまま布団を被り、目を閉じた。
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