眠らない男
眠らない男 1
「眠らなくても生きていけるような体にしてくれ」
突然目の前に現れたシルクハットの男に、俺はそうつぶやいた。
※
入社して3年。もう新入とは呼ばれないが、まだベテランとも言えない。
去年俺があれこれ教えていた部下が、今年入った新卒に部屋の隅でコピー機の使い方を教えていた。毎年2年目の奴が新入りを教育する決まりになっているので、その光景に違和感を覚えているのは俺だけだろう。
俺がこの会社に入ったのは大学院を出た後だった。今年で27になる。だが、大半の奴は院まで行かずに22歳でここに入ってくる。
去年俺が教えたあいつもそうだった。たった3、4歳の違いでこんなことを言うのもなんだが、最近の若い奴はメモを取ることを知らないのだろうか。あいつと初めて会った日に抱いた感想はそれだった。
初めてできた部下に、俺はいささか舞い上がっていた。俺が1年目で知り得たことを、なるべく伝授してやろう。そう思ったのは教育を任されたという責任感からでもあるが、なによりかわいい年下の後輩に俺と同じ思いをして欲しくなかったからだ。
この会社に入ってすぐ俺の教育係についた奴は、やはり年下だった。年齢は上でも働くからには、入社歴が長い方が上司だ。俺はもちろんそのことをわきまえていた。だから、変に気を使われないようになるべく下からいくことに徹した。
言葉遣いはもちろん敬語で、荷物持ちなどの雑用は率先して行った。だが、もしかしたらそれが裏目に出たのかもしれない。
俺の教育係ははじめこそどこかやり辛そうだったが、年齢の事は気にしないでくださいという俺の言葉と、それを裏付ける行動にだんだんと気を良くしたのか、振る舞い方が雑になっていった。年上の奴を従えているということが、より一層気を大きくさせたのだろう。その教え方はあまりに酷く、俺は分からない事だらけだった。
かといって質問をしてもまともな答えが返ってくることもなく、俺はやり方のわからない仕事をたくさん引き受けさせられて途方にくれていた。他の上司に質問に行けば、教えてはくれるものの、そういうのは教育係に聞けよと言わんばかりの顔を向けてくるのだった。実際に迷惑そうにそう言ってきた奴もいる。
そうして行き場を失った俺は、当然ミスを多発させていた。
教えてくれる立場の人間が居ないも同然なので、俺は仕事を怒られることで覚えていった。この扱いは不服だったが、誰も手を差し伸べてはくれなかった。唯一同期の男が時々声をかけてくれたのだが、その時には俺にも変なプライドができていたので飲みの誘いも断っていた。
そうして一年が過ぎ、入ってきたのがあいつだ。4月の頭に俺は心を入れ替えて、もっと人とコミュニケーションを取ろうと前向きに考えていた。
初めてあいつと顔を合わせた時、好青年という言葉がよく似合うと思った。スーツをピシッと着こなし、顔には常に笑みを浮かべているような奴だった。少し髪が長いかなと思ったが、元気よく挨拶をしてくるそいつに対して、俺は確かに良い印象を持っていた。
だから余計に俺のような思いをして欲しくなくて、俺の知る限りは丁寧に教えてやろうと思っていたのだ。
しかし、いざ教え始めてみると、なんとも調子の良い奴だということが分かった。俺が資料のまとめ方について教えている時もメモを取らず、たまにあくびをしていたり、携帯を見ていたりすることまであった。
そんな調子なので俺が何度も教えたことでミスを犯し、だから言ったのにとため息をついていたところ、なぜか上司には俺が怒られた。
「教育係なんだから、しっかりやってくれよ」
そう言われても、何度教えてもその言葉がそのまんま耳を通り抜けていくような奴にどうしろと言うのだ。俺は理不尽に思いながらも、これ以上こいつにミスを重ねて欲しくない一心で、それまで以上に一生懸命教えた。
あいつは相変わらずメモを取らなかったが、何度も何度も教えた甲斐があってか、ヘタなミスをすることはなくなった。それに加えて、あいつのひととなりも少しずつ分かってきた。
あいつはとにかく人とコミュニケーションを取るのが上手く、いわゆる営業向きだった。その性格は特に飲みの席で際立つ。口から出まかせのよいしょを生み出すことに長けていて、その具合が絶妙だからか同僚たちはいい気になり、あいつはすぐに周りの奴らと打ち解けていった。だから仕事の場であいつが何かやらかしても、大抵のことは大目に見てもらえるのだった。
俺はその頃にはもううんざりしていて、飲み会でも奴とはなるべく離れた席に座っていたので、あいつが俺のことをどう思っているのかは知らない。だが、こちらが受け入れてないのが伝わっているのか、あいつは俺に対してはそんな調子を見せることもなかった。
結局そうしてギクシャクしたまま一年が過ぎ、俺は教育係を解かれた。あいつには教えていないことは無いつもりだが、正直、しっかりそれが根付いているとは思えない。実際、あいつが独り立ちした後にこっそり仕事をチェックしてみると、なんとなくでごまかしているような部分がたくさんあった。だがそれがバレる度に得意のテンションでゴマをすり、なぁなぁにしているのだ。
そんなやつが今年の新入社員を教えているので、俺は不安でしかなかった。いや、不安と一言で片付けるにはもっと様々な感情が入り混じっている。その中には、あいつも俺と同じような苦しみを味わえばいいという下賤なものもあった。しかしそんな期待とは裏腹に、あいつの部下はしっかりとメモをとるようなタイプだった。
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