髪の毛 5
娘はその後順調に回復し、翌朝目を覚ました。
ベッドの横で突っ伏すようにしていつの間にか眠ってしまっていた私の手を、娘がそっとつかんだ。慌てて飛び起きると、いつもの娘の姿がそこにあった。私は涙を流しながら娘に謝った。娘は自分の身に何が起きたのかわかっていないような様子だった。
DNA検査の結果、あの髪の毛はもちろん私のものでも、旦那のものでもないことが明らかになった。警察は捜査を進めたが、私たちの知り合いの誰のものとも一致はしなかった。
事故当時、家の中はしっかりと施錠されていたはずだし、そもそも何者かが娘ののどにアレを詰め込むためには、母親である私の目の前で犯行を行わなければならない。くしゃみをするほんの一瞬のすきにそんなことを行うのは、どう考えても不可能だ。
状況だけみれば、やはり私が犯人で嘘をついているという線しか考えられなかったが、あの刑事はそれはないと言い張ってくれているらしかった。結局、証拠不十分で検挙することができず、私はピンチを免れたのだった。
それに警察の調べで、もう一つ奇妙なことが分かっていた。あれだけの大きさのものを無理やりねじ込もうとしたなら、娘の体に抵抗した際の傷や押さえつけられた時のあざなどが残るはずだ。異物は相当な力で押し込まれていた。そうするためにはかなりの力で娘を押さえつけなければいけない。しかし、そのような痕跡が一切残っていなかったのだ。
まるで、その塊がひとりでに口から入って行ったかのようだったと医者は述べた。
それから数年の月日が過ぎた。
あの事件は事故として処理されて、私と旦那はしばらくいつまたそのようなことが起こるかと冷や冷やしていたが、結局あれからは平穏な日々が続いている。
娘はすくすくと成長し、今ではもう小学生だ。
「お母さん、髪切って」
2、3ヶ月に一度、娘はそう言って髪を切る用のハサミを持ってくる。幼稚園に入った辺りから、この子は常にショートヘアに憧れているのだ。どうして短くしたいの? と聞いてみると、いつも少し考えてから、お母さんとおそろいがいいのと返ってくる。めんどくさがりなので私もあれからずっとショートのままなのだ。
おそろいがいいという答えにキュンとしつつも、やはり母親として娘の髪を結ってみたいという欲はある。自分の髪はうまく結える自信がなくてショートにしているところもあるが、他の人の髪なら勝手が違うはずだ。
娘の同級生が遊びに来ると、だいたいの子はポニーテールやツインテール、ハーフアップ、三つ編みなど、様々な髪型にしていてとてもかわいらしい。娘の細くてさらさらした髪の毛も、成長したら一体いつまで触らせてくれるだろうと思うと、今しかないような気もしていた。
「ねぇ、お母さんもおそろいは嬉しいけど、そろそろ違う髪型にしてみたら?」
私は目の前にちょこんと座った娘の顔を、鏡越しに覗き込んだ。
娘はフルフルと首を横に振った。
「だって、小さい頃からずっとこの髪型じゃない。飽きちゃうんじゃない?」
「じゃあ、もっと短くして」
すでに耳元までの短さの髪を指でいじりながら娘は言った。これより短くしたら、男の子に間違われてしまいそうだった。
「きっとポニーテイルとか似合うと思うよ」
娘は無言になり、じっとうつむいてしまった。そんなにこの髪型が好きなのか。私は自分のわがままを押し付けるのがかわいそうになり、娘に謝った。
「ごめんごめん、じゃあ切っていくからね」
娘は少し顔をあげたが、黙ったままだ。私はその柔らかな髪の毛をもったいないなと思いながら切り始めた。
「よし、できた」
鏡の中には、いつもの髪型になった娘の姿があった。毎回美容院に切りに行っていては高付くので、見よう見まねで私が切るようになったのだ。はじめはすぐに母親が切ったなと分かってしまうような出来栄えだったが、何度も回数を重ねると、最近では自分でもまぁまぁ上手いのではないかという仕上がりになってきていた。
娘はどこかほっとしたような顔をしている。
「これで大丈夫?」
「うん、かわいい」
床に落ちた髪の毛を集めている間も、娘はどこか元気がなさげだった。よほど気を悪くしてしまったのだろう。
私は娘を抱きしめた。
「ごめんね、お母さんもこの髪型が大好きよ。とっても似合ってる」
すると娘はくるりと振り返り、私を抱きしめ返した。そして、ごめんなさいと謝ってきた。
「謝らなくていいのよ。本当に、お母さんもショートヘアは大好きよ」
「ちがうの」
娘は潤んだ目でじっとこちらを見ている。娘の前に正座して、顔を覗き込んだ。
「何がちがうの?」
「……わたし、この髪型が好きなんじゃないの」
娘が申し訳なさそうにつぶやいた。相当気に入っているのだと確信していたので、この返答は思ってもみないものだった。
「じゃあどうしていつもこれにするの?」
私は動揺がバレないように、なるべく明るく聞いてみた。きっと何かよっぽどな理由があるに違いない。
しばらく考えてから、娘はゆっくりと口を開いた。
「髪が長いと、あの子が引っ張ってくるから」
私は開いた口が塞がらなかった。私の知らないところで娘がそんないじめにあっているなど考えたこともなかったからだ。そして、気づけなかったことを悔やんだ。
「誰がそんなことするの。学校のお友達? それとも習い事の子?」
私は娘を抱き寄せて優しく撫でながら問いつめた。すると、娘は顔をうずめたままゆっくりと腕を上げた。それは、鏡を指差していた。
思わぬ行動にさっと体に緊張が走る。私はゆっくりとそちらを見た。鏡の中には私と娘がうつっている。娘の指はその斜め後ろを指していた。
しかし、あたりまえだがそこには何もなかった。
私は娘を撫で続けた。きっと落ち着いたらまた詳しく話してくれるだろう。どこか怪我をしている様子もないので、そこまでひどい嫌がらせでもないはずだ。でも、早急に対策をしていかなければいけない。
しばらくそうしながら関係のないことを話しかけていると娘はまた笑い始めた。とりあえず、もう大丈夫そうだ。細かい毛がついているはずの娘を風呂に行かせて、私は再び片付けに戻った。
旦那にどう相談したらいいのだろう。そんなことを思案しながら自分についた毛を払い、掃除機を運んでくる。
散髪後の掃除はなかなか大変だ。掃除機で吸ったあとに確認すると、それでも細かいものが残ってしまっていた。ガムテープを持ってきて、一つずつくっつけて回る。
そうしてふと手元を見ると、長い髪の毛が落ちていることが分かった。こんなとこにまで飛んでいたのかとそれをつまもうとして、全身に鳥肌がたった。
それは、あの髪の毛だった。今度は束ではなく一本ずつだが、よく見れば黒くて長い髪の毛があちこちに落ちていた。何年も経ったが間違いない。あの塊を見た時の嫌悪感を、娘の口から束を引っ張り出した時の感触を鮮明に覚えている。
そしてあることに気づき、私はゆっくりと振り返る。そうしたくはないのだが、体が勝手に想像したことを確認しようとして動いていく。
鏡の中の私が這いつくばっていたのは、先ほど娘が指さしていたまさにその場所だった。その真横に、ボロボロの服を着た女が立っていた。長くて真っ黒で、ずっととかしていないようなボサボサの髪が揺れている。青白い腕をだらんと下げて、ぼうっと突っ立っていた。顔は髪で隠れているが、鏡越しにじっと私を見ていると分かった。
どれほどそうしていたか分からないが、やがて女はすっと消えた。くすくす笑うような、不気味な声が聞こえた気がした。
今でも時々あの髪の毛が落ちていることがある。でも、私は何も見なかったことにして他のゴミと一緒に掃除機で吸ってしまう。そのときは決まって、掃除機の機会音に紛れてどこかから声が聞こえた気がするのだった。
あれ以来、私も娘もずっとショートヘアのまま過ごしている。
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