眠らない男 10

 考えるより先に走り出していた。

 老人は一つ先の角を曲がっていく。白い髪を一つに束ねたその後ろ姿が記憶をかすめる。

「ちょっと待って!」

 思わず声が出る。全力で走っているつもりなのになぜか追いつけない。角を曲がった時にはすでに老人は次の角へと消えていく。いくつかそんなことを繰り返しているうちに、人気のない裏通りへと迷い込んでいた。

 肩で息をしながら角を曲がると、一本道だった。老人は数メートル先を杖をつきながら歩いている。

「あの!」

 俺の声が薄暗い路地に響く。コツコツという杖の音がピタリと止まった。正直声をかけるつもりはなかったので自分で一番驚いていた。俺はまだ、この人とどこで会ったのか思い出せていなかったのだ。


「私に何か御用ですか?」

 老人は俺に背を向けたままゆったりとした口調でつぶやいた。

「えっと、その……」

 返答に迷って言い淀む。だが、くるりと振り返ったその顔を見た瞬間、俺はその人に初めて会った時のことを鮮明に思い出した。

 高そうな服に白い口髭、短いシルクハットに手を添えた彼は、いつかの金曜日に出会った不審者だった。


「はぁ、徘徊老人の次は不審者ですか」

 老人は悲しそうにため息をついた。俺は驚いて老人を見た。今の言葉は絶対に口に出していないはずだ。そして、初めて会ったあの日にもこんな違和感を覚えたことを思い出す。

「あんた、一体何者なんだ」

「あれ、以前お話しませんでしたっけ」

 とぼけた顔で首を傾げる。俺は目の前の人物が言っていたことを既に思い出していた。確か、”私は神だ”と。もちろんそれを信じているわけではない。だが……

「そう、神です。だからあなたの心の中も読める」

 少なくともこんな芸当を披露してくるのだ。神を信じたわけではないが、何かしらの力を持っているのは確かだろう。


「仮に”神”として、今日はわざと俺の前に姿を現したのか?」

 奴はにんまりと笑って答えた。

「あなたがそう思うのなら」

 俺にはもう一つ聞かなければならないことがあった。医学を使っても分からなかった、俺の身体に起きた変化についてだ。でも、それを聞くことはつまり、こいつを神と認めたことになる。それは避けたかった。しかし自分でも馬鹿げていると思うのだが、これくらいしか理由が思い浮かばないのだ。それくらいに俺が病院で受けたショックは大きかった。


 神と名乗る男は俺がそのことを聞くのが分かっているかのような顔をして待っている。舞台の役者が、相手のセリフを待っているようだった。俺は諦めて、思っていたことを口に出した。

「俺が眠れなくなったのはあんたのせいなのか」

 男は嬉しそうに目を細めた。

「ようやく信じてくれましたか」

「信じたわけじゃないけど」

「けど?」

 俺は口を閉じた。男はからかうような目を向けている。

「まぁいいでしょう。そうですねぇ、”せい”と言われるのは心外ですが。私はあなたの望みを叶えて差し上げただけですので」

「望み?」

「はい」

 老人はゆっくりうなづいた。

「眠らなくて済むようになったでしょう?」


 わけのわからない状況に、頭がおかしくなりそうだ。俺にその言葉を信じろというのか。だが、10日も眠っていないのに体に支障なく生きているというのは紛れもない事実だった。医学でもわからないようなことが起きているのも事実だ。受け入れがたいが、俺の口は自然と言葉を紡いでいた。

「一体俺の体に何が起きてるんだ」

 老人は両手を杖について語り出した。

「あなたの体は毎日十分な睡眠をとれている状態をキープしてあります。眠らなくても、今までにないような爽快感と集中力を手にしていることでしょう。ああ、でももちろんただ睡眠が取れているというだけですので、怪我や病気はしますし、気をつけないと死ぬこともありますよ」

「そうじゃなくて、眠ろうとしても眠れないんだ」

 すると、老人は首を傾げた。

「それはそうです。眠る必要がなくなったので」

「眠る必要がない?」

「ええ」

 老人はうなづく。

「ですから、人生の時間を有効にお使いになれるはずです」

「本当に眠らなくても死なないのか?」

「もちろん。あなたは睡眠という呪縛から解放されました。眠らなくとも、体に問題が起きることはありません」


 突拍子もない話だ。だが、実際に自分の身に起きていることを考えれば、信じるしかなかった。というか、俺の中に信じたいという気持ちが少しずつ芽生え始めてきたのだ。

 正直こいつの正体はどうでもいい。俺が知りたいのは、眠れないという症状が体の異常によるものかどうかという点だけだった。病院でもわからない。実際にどこか調子が悪いところもない。それどころか日に日に調子がよくなってきている。それならば、この男の言うことを信じて新しい生活を受け入れてもいいかもしれないと思いだしていた。


「お気に召したようで、何よりです」

 老人はハットに手をかけて、口元に笑みを浮かべた。その瞬間、突風が吹いて思わず目をつむった。笑い声が聞こえた気がして顔をあげると、老人はいなくなっていた。

 俺の前後にはまっすぐの一本道が続いている。次の角までは、それぞれ数十mの距離があった。


 どこかであの男がうまく騙せたと嘲笑っているかもしれない。もしかすると俺の体はもう手の施しようがないほど末期状態で、医者たちは気遣ってああ言っていたのかもしれない。様々な考えが頭の中を飛び交ったが、同時に俺はいろいろと面倒になってきていた。

 そして、その都合の良い舞台に飛び乗ってみてもいいかもしれないと思うようになっていたのだった。


 

 

 

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