眠らない男 9
小会議室に入ると、高円寺は当然のように仕事の説明を始めた。どうやらこいつは俺に顧客のデータ集めとその分析を頼みたいようだ。だが混乱している俺の頭にはそんな話は入ってこず、とにかく話を中断させるので精一杯だった。
「どういうつもりだよ突然」
高円寺はきょとんとした顔で手を止めた。
「どうとは?」
「なんだよ、俺に同情でもしたのか?」
俺にはこいつの行動原理が分からなかった。思い当たるとすれば、同期にもかかわらず雑用ばかりやらされている俺を哀れに思ったという屈辱的な理由ぐらいだ。
確かに、さらに掃除を押し付けられそうになっているところをこいつに助けられたのは事実だ。だが、それでも答えようによっては啖呵を切ってここを出て行こうと思っていた。
高円寺はしばらく考えた後、こう述べた。
「別に、僕は仕事を手伝ってくれる人を探していて、たまたま君の手が空いたから頼もうと思っただけだが」
特に嘘を言っているようには見えなかった。先ほど部長に喧嘩を売っていたのは、もしかしたらああ言うのが一番効率がいいと思ったからではないか。そうとまで思えるほどに、高円寺の顔からは人間らしい感情が読み取れなかった。
俺はあれこれ考えるのが面倒になってきていた。どの道やることもない。しばらく高円寺の仕事を手伝うことにした。
託された仕事はかなりの量があった。下手をすると以前の雑用よりも苦労するかもしれない。だが、やりがいの観点から言えば、圧倒的にこっちの方がいい。
ちょっとした手伝いなどと言っておきながら人にこれだけの仕事を投げるのは、おそらく単純にこいつの中の一度にできる仕事の量がバグっているからだろう。そこには部長のような理不尽さは感じられず、ただできて当然だろうというような考えが見て取れた。
案外挑発的なことができるのか。俺は高円寺に対する考えを少し改めた。無論、本人にはそのつもりはないのだろうが。
それなりの猶予も与えられたため、今日は仕事のとっかかりや計画を立てるだけにとどめて、定時で上がることができた。つい先ほどあんな騒動があり、さらには定時前に荷物を片付け始めた俺を、周りの奴らは様々な目で見ていた。その大半は好奇心だろう。部長の方は見ないようにしていたが、おそらく今回のことでかなり反感を買ったはずである。
そんな空気の中でも高円寺はまるで何事もなかったかのように、いつも通り淡々と仕事をこなしている。肝の座った奴なのか、空気を読むというスキルが著しく欠けているのかが分からない。
でも今はとにかく病院だ。俺は誰とも目を合わせないようにして、職場を後にした。
予約していたにもかかわらず、病院ではかなり待たされた。ようやく通された先にいたのは比較的若い男の医者だった。
俺はここ数日の出来事をなるべく細かく説明した。医者はうなづいて聞いていたが、どうやら信じてはいなさそうだった。その口から精神科という言葉が出る前に、俺はなんとか食い下がろうと必死になった。
「確かに、本当に一睡もしていないのならそれほど体力があるのはおかしいですね」
医者は腕を組み、少しの間沈黙した。そこでもう一押しすると、詳しく検査をしてもらえることになった。検査はまた後日となり、その日は薬を貰って帰宅した。
薬を貰う際に、心を落ち着ける効果や不安を抑制する効果があると言われたのを見るに、おそらく完全には信じてくれていないだろうが仕方がない。逆に俺がもし医者だったら、話を聞き流しながら精神科への紹介状を書いていることだろう。
袋の中には睡眠薬も入っていた。理由はともかく、症状が改善してくれるならこの際なんでもいい。俺は貰った薬をそれぞれ服用し、早々に床へ就いた。
しかしそんな努力も虚しく、数日後の検査の日までやはり少しも眠ることが出来なかった。
高円寺の仕事に追われているうちに、あっという間に検査の日がやってきた。医者はあれからも一度も眠れてないという俺の言葉に半信半疑という目を向けていた。それでもとにかく原因が分かればいい。俺はベッドの上で眠れない日々を過ごしながら、検査の結果を心待ちにしていた。
だが、数日後に言い渡された結果は満足の行くものではなかった。医者は俺を健康そのものだと言い放ったのだ。俺の脳はむしろ毎日十分な睡眠をとっているはずの数値を叩き出していたらしい。もちろん俺は食い下がった。
だんだんと語気が荒ぶっていく様子に、看護師たちは怪訝そうな顔をしていた。おそらく完全に気のふれた人間だと思っているのだろう。俺はもういっそ狂ってしまいたい気持ちで必死に訴えた。
だが、そこであの若い医者が落ち着いた声でこう言った。
「申し訳ありませんが、我々の力ではあなたの病気を特定することはできません」
気のせいかもしれないが、医者のその言葉からは今までにないような誠意が感じられた。俺は医者の目を見た。医者は何か言いたいような、何も言えないような顔をして俺を見ていた。
「もっと大きな病院を紹介することもできますが、どうしますか?」
医者は続けて聞いてきた。だが、冷静さを取り戻した俺は、その申し出を断った。おそらくどこへ行ってもこれ以上のことは分からないだろうと感じたのだ。それに、いくつも病院を回れるほどの資金もない。
こんな馬鹿げた患者に一人でも真剣に付き合ってくれたのだ。俺はそれで満足するしかなかった。
頭を下げて、診察室を出た。元気のない足取りで病院の出口へ向かった。あの日から、もう十日も眠っていなかった。
それでも俺の体は正常に機能しているし、頭も曇った様子はない。力が出ないのは単純に気が滅入っているからだ。
もしかしたらやはり何か精神的な異常があって、本当は毎日眠っているのに寝ていないと錯覚しているのかもしれない。それなら全ての合点がいく。その可能性もすでに疑っていて一昨日なんかは一晩中ずっと時計を見ていたしその記憶もあるのだが、きっとその時も夢か何かをみていたのだろう。なんなら、今だって夢の中かもしれない。
そんなことを考えながら薄ら笑いを浮かべて自動ドアを潜り抜ける。ふと前を見ると、道の向こうにどこかで見たことのある老人が通り過ぎていった。
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