眠らない男 8

 いくら脳が興奮状態だからって、そんなことがあるだろうか。俺は恐ろしくなり、布団を頭から被った。だが、考えれば考えるほど俺の目も酔いもさめていく一方だった。そうしてうんうん唸っている間に、一睡もできないまま再び朝がやってきた。


 床に転がっていた友人たちが、気持ちよさそうに伸びをして起き上がる。俺はそんな2人を恨めしい気持ちで眺めていた。

「なあ、俺顔色悪くないか?」

 目を擦る2人に声をかけた。2人は顔を見合わせて、俺の問いに答える。

「いや、別に」

「むしろいつもより元気そうだぞ」

 俺はため息をついて、昨日から寝ていないことを告げた。すると、そいつらは気にしすぎだと言って笑った。

「オレも3日くらい寝てない時あったけど、死にはしないって」

 そう言って昼過ぎまでだらだら過ごし、帰っていった。


 奴らにはそう言われたが、俺は楽観的に捉えることができなかった。確かに俺にも徹夜した日や、疲れすぎて眠れなかった日もある。しかし、その時とは訳が違うと感じていた。そういう日は大抵すこぶる体調が悪いのだが、今はむしろ絶好調だ。

 疲れや酔いも横になってしばらくすれば治ってしまったし、何よりいつもの泥のような眠気が昨日の朝から一度も感じられていないのだった。

 何かの病気なんじゃないか。そう思い、インターネットで手当たり次第調べてみたが、一致する症状は見つけられなかった。

 あまり気にしすぎるのもよくない。俺は落ち着いて寝られるように、風呂に湯船をはり、上がってからは液晶画面を見ないようにして早々にベッドへ向かった。

 ただ寝転んでいても辛いだけなので、小難しい本を読むことにした。こういう時は脳が興奮しないよう、少し退屈なのがいい。

 入社したての時に読まされた自己啓発本をペラペラめくりながら眠気が来るのを待った。


 だが、俺は再びそのまま朝を迎えることになった。


 仕方がないのでとりあえず出勤する。もう三日も寝ていないのに、健康的な生活を1週間ほど送った時のような爽快感があった。

 今日の夕方、病院へ行こう。そう決意して、予約を取った。もし仕事が残ったとしてもなんとか抜けさせてもらおう。


 朝の清掃を終え、いつものように雑用が回される。なんとしても定時には上がりたいという思いから、オーバーヒート気味にそれを潰していくと、昼過ぎには全て終わってしまっていた。

 自分でも信じられない気持ちでそれを部長のところへ持っていくと、かなり怪訝な顔をされた。普通ならありえないスピードで書類が返ってきたのだから、当たり前だろう。だが部長は書類に視線を落とし、小さな目を見開いた。

「本当に1人で全部終わらせたのか?」

 上擦った声でそう聞いてきた。もちろん誰にも手伝ってもらってなどいないことは、こちらをすっとんきょうな顔で見ている周りの奴らもよく分かっているだろう。


 部長はやることのなくなった俺に何をふっていいか分からない様子であたりをキョロキョロ見回した。

「そうだ、一箇所ずっと掃除が甘いところが……」

「部長」

 言葉を遮ったのは、高円寺だった。


「書類の確認をお願いします」

 そう言って奴は分厚い資料を差し出した。

「あ、ああ」

 部長はしどろもどろになりながら、それを受け取る。

 俺はこの後どうしようかと思考を巡らせていた。部長が言っていたような掃除は、さすがに俺の仕事の範疇ではない。ただでさえ朝清掃と雑用で仕事らしいことをさせてもらえてないのに、これ以上酷いようなら退くことも視野に入れなければならない。そう思うとだんだんと腹が立ってきた。やはりこの半年間の仕打ちは、どう考えても部長の逆恨みだ。

 何か文句を言ってやろうと口を開きかけた時、横から意外なセリフが飛んできた。


「それと、どうせ仕事がないのなら彼に僕のプロジェクトを手伝ってもらいたいのですが」

 カタカタとキーボードを叩く音が響いていたオフィスの中が、一瞬時が止まったかのようにしんと静まりかえった。振り向かなくとも、そこに居る大勢の視線がここに集まっていると分かる。

「は?」

 俺の背中は変な汗をかきはじめた。


「彼が今まで押し付けられてきた仕事は、3年目のキャリアで背負うものではありません。まして、掃除がしたいなら仕事中に携帯ゲームをする余裕のあるご自分でなさった方が効率的でしょう」

 普段無口な奴の口からスルスルと言葉が出てきていた。自分に歯向かうはずもないと思っていた人物に突然そう言い切られて、部長は何をいうでもなくただ鯉のように口をパクパクさせている。

「今僕の抱えている件には、彼のように単調な仕事を迅速にこなせる優秀な人材が必要です。ですから、お借りします」

 高円寺は一礼し、くるりと振り返った。その顔はいつもと変わらず、特に何の感情も読み取れない。奴はちらりと俺の方を見ると、そのまま小会議室へと向かって行った。トントンという足音が遠ざかっていく。この妙な空気の中に取り残されるのが怖くなり、俺は慌てて後を追った。


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