リモコン 2

 ギュっとつむった目を、そっと開いてみる。だがそこはもとのぼくの部屋のままだった。人生の巻き戻しに失敗したのは、机の上に置いた漫画の最新刊を見れば一目瞭然だ。

 ぼくは少し残念な気持ちになり、もう一度巻き戻しボタンを押してみた。今度は目を開けていたが、何度試しても時計の針が戻ることはなかった。


 ため息をついて、まじまじとボタンを見る。一番欲しいと思った機能は使えなかったが、まだこのリモコンがガセと決まったわけではない。数あるボタンの中で使えるのは一つだけなのだ。ぼくは次に欲しいと思うボタンについて考えることにした。


 巻き戻しがダメならば、やはり次は一時停止だろう。時を止めるというのは、少年漫画でも常に人気のキャラが持っている能力だ。朝は満足するまで二度寝ができるし、こうしてテストの前日にうだうだする必要もない。クラスで一番モテるあいつの額に油性ペンで”肉”と書くことだってできるし、頭を使えばお金だって無尽蔵に稼げるだろう。

 ワクワクしながら長方形が二つ並んだボタンに指を伸ばす。小さな灰色の突起を、しっかりと押し込んだ。

 しかし、何も変化は起こらない。相変わらず下からはテレビの音と家族の笑い声が聞こえ続けていたし、カチカチという秒針の音も響いていた。


 ぼくはさらにがっかりすると同時に、かなり疑いの気持ちが強まってきていた。あの女性はきっと気に入るはずだと言っていたのに、全く欲しい機能ではないじゃないか。

 やはり目の前で消えてみせたのは何かのトリックによるもので、もしかしたら今頃どこかでぼくのことを見て笑っているんじゃないだろうか。

 

 なんだかムシャクシャしてきて、ぼくは目についたボタンから次々と押して行った。1から12まで続いた数字に、番組表、音量、チャンネルの切り替え……電源のボタンだけはなんとなく勇気がなくて押せなかった。


 もういくつボタンを押しただろう。親指の先が痛くなりはじめていた。試していない残りはもうわずかしかない。

 巻き戻しも一時停止も、一応もう一度押してみたけどなんの反応もなかった。その頃にはもうこんなものは放ってさすがに明日に向けて勉強をしようかと考え始めていた。


 だが、その次のボタンを押しかけて、思わず指が止まった。そういえば、早送りはまだ試していなかった。

 辺りが妙に静かになったような気がした。もしもこれがぼくに与えられた機能だったとしたら、押したら一体どうなってしまうのだろう。

 急に見慣れたはずのリモコンが気味悪くなって、ぼくはリモコンを机の奥へと放った。そして代わりに押しやってあった世界史の教科書を引っ張り出して、適当にページを開いた。


 でも、そこに書かれているマーカーの引かれた文字は何一つ頭に入ってこなかった。並んだ単語はまるで意味のない羅列のように、頭の中をぐるぐるするだけだ。


 ええい、しょうがない。

 ばっと顔を上げ、リモコンを掴む。そして恐る恐る、早送りのボタンに当てた指に力を入れた。


 今までとは違い、何かさらにぐっと押し込めるものがあるような感触があった。そのまま力を入れると、目の前の景色がぐんと小さくなり、ぼくから一歩奥へと遠のいた。あたりは真っ暗な闇だった。

 小さくなった景色は写真のようになり、そのまま左へと流れて行った。すると次の景色がまた右から流れてくる。ぼくは古い映画のフィルムを思い出した。

 

 といっても目の前にあったのは相変わらずぼくの部屋の様子だったのだが、それがだんだんと明るくなっていった。かすかに開いたカーテンの隙間から、日が差しこんできたようだった。


 慌ててボタンから指を離した。すると小さくなっていた景色はぐっとぼくに迫ってきて、ふわりと体が浮いたような気がした。

 

 目を開けると、ぼくはベッドに横になっていた。

 ……なんだ、夢だったのか。随分と子供じみた夢を見たなと、おかしさがこみ上げてきた。本当にどうして一瞬でもあんな漫画みたいなことを信じてしまったのだろう。

 時計はいつも起きる時間をさしていた。ぼくは起き上がると、開きっぱなしの教科書を鞄にしまおうと、机に近づいた。


 そこにはあのリモコンがあった。ぼくはそれを凝視したまま、動くことができなかった。まるで金縛りにでもあったかのように、自分の心音だけがやけにうるさく聞こえる。

 いや、きっとこれは下のテレビのリモコンだ。昨日うっかり部屋まで持ってきて、机の上に置いたのだ。だからあんな変な夢を見たんだ。


 そう言い聞かせながらしばらくそこに立ち尽くしていたが、こんなことをしていても何の解決にもならない。それにリモコンが無いとなると、きっと今頃下で母さんがカンカンだろう。バレる前にそっと戻しておかなければならない。


 ぼくはじっとりとかいた手汗をパジャマでぬぐうと、リモコンを握り締めて階段を降りた。


 だが、リビングに着いたぼくはまたしてもそこに立ち尽くすことになる。

 食卓の上には、いつも通りの朝食と父のための新聞、それにぼくが握っているのと全く同じリモコンが置かれていた。


「なにやってんの」

 背後で突然声がした。ぼくはぎゃあと叫んでリモコンを取り落とした。リモコンは音を立てて床に転がった。


「ちょっと、びっくりした何?」

 振り返ると母さんが眉間にしわを寄せていた。ぼくは震える手でリモコンを指差した。

「あれ、あれさ、新しく買った?」

 母さんはちらりと僕の指さす先を見て、再びこちらを見た。

「あれって?」

「だから、リモコンだよ! テレビの」

 ぼくは指差す手をブンブン振った。母は怪訝そうな顔でまたそちらを見たが、首を傾げてキッチンへ行こうとした。

「何言ってんのかわかんないけど、テレビのリモコンなんて一個あれば十分なんだから、買うわけないでしょ」


 ぼくは少しためらいがあったが、床にあるリモコンを拾い上げて母さんのもとへ持って行った。

「だって、だから、これだよ。なんで二つあるんだよ!」

 母さんはリモコンをじっと見つめた。

 いや、違う、これはリモコンを見ているのではない。ぼくは背中に何か冷たいものが走った気がした。


 母さんにはこのリモコンが見えていないのだ。


 せっかく用意された朝食は、ほとんど喉を通らなかった。机の上には全く同じリモコンが二つ並んでいた。

 向かいの席に座る姉がその一つをひょいと持ち上げて、テレビに向けた。そして先に出て行った父がかけていたニュース番組を、自分の好きなアイドルが司会をしているものへと変えると、もとあったところに戻した。

 だれもその違和感に気付いていないようだった。


「ごちそうさま」

 ぼくは早々に席を立つと、自分の部屋へと向かった。着替えをして、教科書を鞄に詰めながら、ゆっくり頭の中を整理した。

 つまり、あのリモコンは本物で、ぼくは人生を早送りする能力を手に入れたのだ。その一文を、何度も何度も繰り返し言葉にしてみた。

 注意力が散漫になったのか、口があいたままの筆箱を床にぶちまけてしまった。それを拾いあげようとして、机に後頭部をぶつけた。

 痛い。その時急に頭がさえてきて、これが夢ではないことを確信したのだった。


 そうだ、やはり昨日のあの女性は夢でも幻でも、ぼくの妄想でもなかった。そしてこのリモコンには非現実的な力が宿っている。

 一度受け入れてしまうと、なんだかワクワクとした気持ちが湧き上がってきた。

 こうしてぼくは、特別な力を手に入れたのだった。


 

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