リモコン 1
「これは、あなたの人生のリモコンです」
そう言って差し出されたのは、リビングにあるはずのウチのテレビのリモコンだった。声を聞くまで、目の前にいるのが女性であると気づかなかった。見惚れてしまうくらいの美人だったのだが、男装がよく似合っていた。
「は、はあ」
戸惑いながら、黒いスーツを着たその人が差し出す灰色のリモコンを受け取った。手にすればそれはますます、使い慣れたあのリモコンだとしか思えなかった。表にあるボタンの汚れも、裏の電池カバーにセロハンテープが貼ってある様も、全て記憶と一致している。
「あの、これウチのテレビのですよね?」
何も言わずぼくを見つめるその女性に、恐る恐る聞いてみた。正直あまり異性と話した経験がないので、こんな場面だというのに、とびきりの美人に緊張していた。
「ええ、それをモデルにコピーしたので外見は同じはずです。こういうのは使い慣れてる形の方がいいですから」
女の人は事もなげに答えた。滑舌がいいというか発声がいいというか、外見のこともあってぼくは宝塚のスターを思い出した。
「一つのリモコンに性能は一つしかつけられないので、実際に機能するボタンは一個だけなのですが。でも、必ずお気に召すと思います。では、役目は終わったのでこれにて失礼いたします」
女性がうやうやしく頭を下げると、目の前で小さな爆発が起きた。そして現れた時と同様に、一瞬にして姿を消したのだった。
お世辞にも大きとは言えない我が家の、生まれ育った部屋の中に再び静寂が訪れる。下からは家族が笑いながらテレビを観ている音が聞こえてきた。
よくある一日の、よくある終わりを迎えるところだった。夕飯を食べ終わり、風呂を上がったぼくは自分の部屋で勉強していた。いや、正直に言えば勉強していたというのは嘘で、思いっきり漫画を読んでサボっていたところだった。
突然目の前にあの女性が現れて、そして考える間も無くこのリモコンを与えられ、消えて行った。滞在時間は1分にも満たなかっただろう。
リモコンを手にしたまま、もうは他方の手の漫画を置くことも忘れてしばらくぼーっとしていた。
人間というのは、許容できる範疇を大きく超えたことが起きるとこうなるのだ。よくテレビでドッキリ番組なんかを観ては、他人事だと思って爆笑していたが、実際自分の身にこんなことが起きてみて、今まで笑ってしまった人たちに謝罪したいような気持ちになった。
そうだ、ドッキリ、それかもしれない。ぼくは立ち上がって部屋の中を見回した。どこかに隠しカメラがあって、このぽかんと口を開けたまま固まっている自分を全国のお茶の間に届けようとしているのではないだろうか。そして、ドッキリと書かれた看板を持った今流行りの若手芸人が、カメラと共にその扉から入ってくるのではないかと思った。
しかし、何分待っても一向にそんな気配はなかった。
ぼくは再び椅子に深く腰掛けると、ふーと大きく息をついた。テレビにしたって、流石にあんな登場の仕方はできないだろう。仮に彼女が超大物マジシャンの弟子だったとしても、この至近距離であんなこと、生身の人間にはできないはずだ。
彼女は文字通り、一瞬にして目の前に現れ、そして消えてしまった。
あまりの非現実にしばらく放心状態だったが、少しずつ落ち着きを取り戻してきた。彼女の存在が夢ではないことは、握ったままのこのリモコンが証明している。それならば、ありのまま起きたことを受け入れるしかない。
ラノベや漫画を大量に読み続けてきた経験が活かされる日が来るとは思ってもみなかった。
改めて、よく見知っているはずのリモコンを観察する。
それには様々なボタンがついていた。数字のボタンに一時停止、録画に番組表など、一般的にテレビのリモコンについているものと同じだった。
混乱する記憶をなんとか落ち着かせて、彼女が言っていたことを思い出す。確か、実際に機能するボタンは一つだけ、と言っていたはずだ。
機能するとは、そのまま書かれている通りのことが起きると考えてもいいのだろうか。
それから、一番大事なことを思い出した。彼女は、これはぼくの人生のリモコンだと言っていた。
つまり彼女のセリフが本当ならば、このリモコンはボタンを押すと僕の人生に普段テレビに向かって使っているような能力を発揮するということになる。
真っ先に、巻き戻し機能がいいと思った。人生をやり直せるなら……ぼくはまだ若いつもりだが、そう思うことは多々あった。巻き戻った時に今の記憶が消えていたらあまり意味はないが、もしも記憶を保持したまま戻れるなら無双することができる。
ぼくは天才児だともてはやされ、きっと友達も数えきれないほどできることだろう。
まだ完全に彼女の言うことを信じたわけでは無かったが、ぼくは少しドキドキしながら巻き戻しボタンを押した。
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