フロントガラス越しの空
「もう出てってよ!」
部屋の中に叫ぶ彼女の声がこだました。辺りにはいまさっきぶちまけたばかりの物が散乱している。ピンク色に塗られたネイルで引き裂かれ、腹から綿が出ているあのクマはいつか僕がプレゼントした物だ。
こうなったらもう手のつけようはない。僕は黙って立ち上がると、ドアノブへと手をかけた。
「どうして分かってくれないの……」
背後から疲れ切った彼女のかすれ声が聞こえた。
一基しかないエレベーターの上にある「1」の数字が点灯している。下矢印のボタンを押すと、到着するまでに随分と時間がかかった。扉が開いたそれに乗り込み、地下一階へと向かう。
車のキーだけは、常のポケットに入っていた。まだ数千キロしか走っていない相棒に乗り込むと、エンジンをかけた。このまま薄暗い地下にいても気が滅入るだけだ。外へ出て適当に時間を潰そうと、僕はハンドルを握った。
彼女にはそれほど不満はなかった。ただ、束縛の気が激しくて、時々こういうことが起きていた。仕事の付き合いで飲みに行った時に他の女性がいたのがばれただけで、こうやって癇癪を起こすのだ。もちろんその人とは個人的には何の繋がりもない。
初めはかわいい嫉妬だと言うぐらいにしか思っていなかったのだが、段々とエスカレートしてきていた。今では本当に些細な、朝隣人の若い女性に挨拶をした程度のことでも激しく怒りを顕にするようになっていた。
こんな性格になったのは、浮気性でおまけにDV癖もあったという前の彼氏のせいだろう。出会った頃の彼女はまだそいつとのつながりがあり、心身ともにボロボロの状態だった。
そんな彼女に関心を持ったところが僕たちの始まりだった。確かにその時には同情の気持ちはあったと思う。でも、その男と縁を切るのを手助けしているうちにひたむきな彼女の姿に惹かれていき、色々なことを経て付き合うことになった。
その頃から束縛は強い方であったが、そんな彼女の事情も知っていたので僕は極力不安を取り除いてあげようと努めた。連絡を頻繁に取り合っていた女友達とも距離を置き、妹や家族とのメールすら、彼女のいる前では控えるようにした。
だが、彼女のそれはひどくなる一方だった。頑張ってなだめてきたがそれでもダメな時はダメだと気付き、最近ではもう放っておくことにした。ほんのちょっとでも一人で冷静になる時間を与えれば、帰って僕がごめんねと一言謝るだけで大体の場合は落ち着いた。
そのやり方があっていたのか、彼女の癇癪はあまり起きないようになっていたので、今回は久しぶりの感覚だった。
怒らせた原因については、もはや考えないことにしていた。あれこれ考えても彼女は突拍子もないことで急に怒り出すので、考えるだけ無駄だった。
もうそろそろ、終わりにしようかな……。赤信号を待ちながら、ぼうっとそんなことを考えていた。
なんとなくのドライブでいつも使う道は折り返し地点を過ぎ、そのまま家の前まで戻ってきた。いつもならここに来るまでに僕の気持ちも幾分か晴れて、彼女に手土産の一つでも買っているところなのだが、今日はまだ沈んだ気持ちのままだった。
質量を感じさせる灰色の雲が空を覆っているのも原因の一つかもしれない。どこか店にでも入ろうかと思ったが、そこで初めて財布も携帯も部屋に置きっぱなしで出てきたことを思い出した。
なんとなく地下に入る気にもなれず、僕はそのままマンションの前の路肩に車を停めて、音楽をかけた。
かかってきたのは彼女の好きなアーティストの曲だった。自分には女の気配があるものを一切排除させようとしてくるのに、彼女はこのグループの男性ボーカルに熱狂していた。
僕は甘ったるい歌い方が癪触り、あまり好きにはなれない。その曲を飛ばして、プレイリストから登録してある様々な曲をかけていったが、なかなか今の気分に合うものが見つからなかった。そのうちに雨が降ってきて、フロントガラスに雨粒が叩きつけられていった。
ほとんど一定のリズムで曲を飛ばし続けていた僕の指が、ふと止まった。懐かしい、そう思ってイントロを聞き入ったのは、かなり昔にハマっていた曲だった。見ればプレイリストにはその頃好きでよく聞いていた曲がずらりと並んでいた。しばらくそれをかけて、当時の思いに浸ることにした。
13曲あったプレイリストを全て再生し終える頃には、すでに雨もあがっていた。聞いているうちに色々と思い出してきて、歌詞を口ずさんでいると、僕の鬱々とした気も晴れて行った。
それと同時に、付き合ったばかりの彼女のことを思い出していた。そのプレイリストはちょうどあのDV彼氏を追い払おうとしていた頃のものだった。
当時の気持ちにシンクロした僕は、もう少し彼女に歩み寄ってみようという気持ちになっていた。僕は笑っている彼女の彼女の顔が大好きだった。僕が帰ってくるまで起きて待っていようとして机で寝落ちしているところも、外のデートの時はわざわざ時間をずらして家を出て待ち合わせをしようとするところも、そしてその時持っている中で一番のお気に入りをきてくるところも、全部大好きだった。
本当はついさっき、彼女の怒りをかう直前まで、僕はそろそろ結婚について考え始めようかと思っていたのだった。それが何か小さなきっかけでこんなことになってしまい、暗く沈んだ気分のせいで短絡的に別れることまで考えてしまったが、それはやはり気の迷いだ。
こんなに好きになったのも、心から愛しているのも、生涯で彼女一人だけだと、そんな確信が湧いてきた。癇癪を起こす癖は、ゆっくり付き合っていって一緒に治していけばいい。僕がもっと不安がらせないようにして、彼女が心からリラックスできる時間を増やしてあげればいいだけだ。
僕は決心し、エンジンをかけなおそうと前を見た。
フロントガラスの向こうには晴れ間が差していた。道ゆく子供が空を指差して、母親の手を引っ張っていた。雨が上がって急に晴れたのだから、きっと虹が出ているのだろう。
僕は空を見上げようとした。その瞬間、ドンと大きな音がして、車が揺れた。
徐々に真っ赤に染まっていく空の中に、ピンクのネイルの手が見えた。
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