正義感は犬を殺す 5

 食器を片すと、二階にある自室に戻った。リビングの方からは、未だに笑い声が聞こえてくる。先ほどよりいささか盛り上がっているように感じるのは、思い過ごしだろうか。オレはドアを閉めて、ベッドに寄りかかるようにして座った。


 今日は色々なことがあった。1人になってようやく一息つけたような気がする。そう思った瞬間、ひどく疲れを感じた。ベッドに背を預けると、そのまま眠りに落ちてしまった。


 コンコンというノックの音で目が覚める。時計を見ると、先ほどから30分が経過していた。

「はい」

 半分寝ぼけたまま返事をする。してから、しまったと後悔した。母や父がここへくることは滅多にない。となれば、ドアの向こうにいる人物は1人しかいない。

「入るぞ」

 飲み物を手にした兄がガチャリとドアを開けた。


「飲むか?」

 兄は缶ビールを差し出した。もう一方の手にはペットボトルの炭酸飲料を持っている。車で来ているはずの兄は、どうやら泊まっていく気はないようだ。あまり酒を飲む気にはなれず、オレはその申し出を断った。兄は短くそうかと呟くと、部屋に入るでもなくそのまま開けたドアに寄りかかった。


「お前、働き出したらしいな」

 兄はそれとなく切り出した。こうやって話しかけられるのは一体何年ぶりだろうか。オレは兄の意図するところが分からず、「ああ」とだけ返事をした。

 きっと単なる気まぐれだろう。こんな返答をしていれば、そのうち飽きられてリビングに戻っていくはずだと思っていたのだが、兄はなかなかそこから去ろうとしなかった。別につっけんどんな態度をとりたいわけではない。ただ、ずっと話してこなかった相手にどう接していいかが分からないのだ。

 会話は一方通行で、質問されたことにオレが一言返すと大体そこで終わってしまうのだが、それでも兄はいろんな方面から話題を振ってきた。あまりの豹変ぶりになにか裏があるのではないかとすら思っていた。


 でもしばらくして、どう接していいか分からないのは兄も同じであるのではないかと薄々感じるようになってきた。緊張からあまり兄の方を見ないようにしていたのだが、ちらりと見ると兄も同じような顔をしており、全然オレの方を見れていなかった。時折訪れる沈黙をなんとか繋ごうとしているかのように、プシュっという炭酸飲料の蓋が開く音が響く。

 それに話題が尽きてきたのか、はじめはオレの近況についての話だったのに、気づけば今では芸能人のどうでもいいようなゴシップネタについての質問になっていたのだ。うんうんと適度に相槌を入れてみると、兄は必死になって話題を広げようとしだした。

 いつも友人に囲まれてなんでも飄々とこなしてしまう兄のイメージと目の前にいる一生懸命な男の姿との間に、大きなギャップが生じて、オレは思わず吹き出してしまった。


 兄は驚いた顔でこちらを見ていた。オレはそんな兄の方へ笑いながら手を差し出した。

「兄貴、やっぱそれ、飲むわ」

 一瞬何のことを言われているのか分からないという顔をしていたが、オレが飲み物を飲む仕草をすると、すぐにビールのことだと気付いたようだ。兄はオレの部屋に入ってきて、少し離れたところに腰を下ろした。渡されたビールはすでに汗をかいていてぬるくなっていたが、それでも美味しいと思えたのだった。


 はじめはお互いまだぎこちなかったが、アルコールが回ってきたこともあって、だんだんと会話が続くようになっていった。お互い昔のことにはあまり触れなかったが、それでもそれぞれの仕事について様々な話をした。話していた時間はそれほど長くはなかったのだが、オレは久しぶりに家族の団欒の中にあるという感覚を味わっていた。


 それなりに盛り上がった頃、リビングに居た母が上がってきた。母はオレたちの間にさくらんぼを置くと、嬉しそうな顔でまた下に降りて行った。真っ赤なそれをつまみながら、オレはふと今日見た光景を思い出していた。

「そうそう、今日変な案件が回ってきてさ」

「変って?」

 兄もさくらんぼを一つ頬張りながら聞いてきた。

「なんか、すごい血飛沫みたいな汚れのついた壁紙の張り替え作業で。とても血糊とかには見えなくて」

 さくらんぼは甘酸っぱくて美味しかった。オレは続けてさらに二つ取って口に運んだ。

「天井や床はすごく綺麗で、多分あれ新しいのに替えたばっかだと思うんだよね」

 兄は黙って聞いていた。オレはあまり興がのらなかったのかと思い、そこで話をやめにして、他の話題に切り替えた。


 さくらんぼがなくなった頃、兄はおもむろに立ち上がった。時計を見ると、23時半を指していた。あの仲の悪かった兄弟が実に2時間も2人で話をしていたのだ。

 正直昔から感じていた劣等感や不満は消え去ったわけではない。今夜の兄は”兄”としてではなく、久々にあった友人というような感覚だった。

 ただ、これからはもっと兄と話をしてみてもいいかもしれないと、そう思い始めていた。

「お前の勤め先って、確か4丁目の方だったよな」

 部屋を出る間際、そう聞かれた。

「ああ、あの寂れた商店街にあるさえきの肉屋の隣の隣」

 オレはあくびまじりに答えた。酒も入って話し込んだので、いい具合に気持ちの良い眠気がやってきたようだ。

「そうか」

 兄はそう言って、部屋を出て行こうとした。

「今度さ」

 口から勝手に言葉が飛び出していた。兄が振り返る。オレは急に気恥ずかしくなって、顔を背けた。

「まあ、どっか飲みにでも行こうや」

 兄はしばらくこちらを見ているようだった。

「ああ、次の山が終わったらお前の店まで車で迎えに行ってやるよ」

 その声は弾んでいるようにも、何かを決心するようにも聞こえたような気がした。






 

 


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