リモコン 3
ぼくはさっそくこの得体のしれないものを学校へ持っていくことに決めた。
ぼくは今、定期テストの真っ最中だった。テストの時間はぼくにとって苦痛以外の何物でもなかった。
解答用紙はいつまで経っても真っ白なままだし、完全に手が止まったままの僕とは違って、クラスメイト達のシャーペンの音はチャイムが鳴るギリギリまで止まることがない。
はじめは問題について考えていたのに、そのうちにその音が気になって仕方なくなってくる。まるで、落ちこぼれのぼくのことを全員で責めているように聞こえてくるのだった。
今回はほとんど勉強なんてしていないのだから、なおさら辛いだろう。どうせ結果が同じなら、そんな時間はさっさと飛ばしてしまいたい。
自分の机の上にそっとリモコンを置いてみたが、誰一人その明らかに異常な光景を気に掛ける様子ない。やはり家族だけではなく、ぼく以外の人には見えていないらしかった。
これは、いよいよ期待できるぞ。周りがソワソワしながら友人たちとテストの対策を話し合っている中、ぼくは1人で優雅な時間を過ごしていた。
開始の合図が鳴り、周りは一斉にペンを取った。ぼくはゆっくりとリモコンを持った。
いざ押すとなると、やはり少し緊張する。本当に今朝のような時間の跳躍が起こるのだろうか。ぼくは半ば祈るような気持ちで、三角が二つ並んだボタンに指をかけた。
押した瞬間、景色が遠のいた。それはパラパラ漫画のように、ぼくだけがいない教室の様子を次々とコマ送りで映し出していた。クラスメイト達がせかせかとペンを動かし、その間を教師が爆速で歩き回っている映像は、滑稽で仕方がなかった。
そうしてシーンは教室から校門を出て、下校途中の様子へと切り替わった。ぼくはそこで指を離す。一瞬浮遊感を感じた直後、まぶしい光に包まれた。思わず目を閉じる。
ゆっくりまぶたを開けると、そこはいつもの通学路だった。
すごい、ぼくは震える手のひらをぎゅっと握りしめた。やはりこのリモコンの力は本物だ。ぼくはこれで、人生で迎えるであろう様々な嫌な時間を早送りにすることができるのだ。
実に奇妙なことなのだが、飛ばした間の時間についての記憶は二つ残っていた。一つはあの真っ暗な空間で客観的に景色を見ているもので、もう一つは実際にぼくが経験するはずだったものだった。
だが、後者については簡単な”情報”しか残っていない。だから、ぼくはテストがどんな形式で、どんな問題が出たかということを知っているのだけど、それを解きながら感じたことについては漠然と嫌だったなということくらいしか覚えていないのだった。
これは好都合だ。もしも飛ばした時間の中に何かトラウマになるようなことがあったとしても、ぼくはその時の感情にとらわれずに済むのだ。しかも何が起きたのかは覚えているので、誰かとその時のことについて話をしていても、食い違う心配はない。
実際今はテストがやはり全然解けなかったことや、終わった後に周りの人たちが思ったよりも簡単だったと話していたということは覚えていても、不思議といつものような負の感情に支配されることがない。なんとなく嫌だったなという思いはあるものの、どちらかといえばすがすがしいような気分だった。
ぼくは久々に、コンビニに寄って買い食いをしながら帰ることにした。
それからは、毎日リモコンを使うようになっていた。退屈な授業の時間はすべて早送りにし、感覚としては一日中家で漫画を読んでいるようなものだった。それでも、授業中の記憶はあるのだから、いつも予習や復習を特にしないぼくにとっては何も困ることはなかった。
そんな要領で、基本的にいつも一人ぼっちな学校の時間はほとんど早送りになり、あっという間に卒業の日を迎えた。
勉強ができないぼくは進学するつもりはもともとなかった。働くようになったぼくは、そこでこのリモコンの真価を見出したような気がした。
働いている間の時間をすべてすっ飛ばしていても、ぼくの手元には他と変わらないだけの給料が振り込まれてくるのだ。力仕事も多い職場だったので、このリモコンは大活躍だった。
もちろん自分自身が働いていて、その記憶や一日の終わりには肉体的な疲労感もあるのだが、毎月給料日に明細を見る時には、まるで誰か他の人が働いた分をもらっているような気になるのだった。
こうして毎日が目まぐるしく過ぎていったある日、ぼくはうっかりリモコンを盛大に落としてしまった。
手から滑り落ちたリモコンは、二階の高さから床にめがけてまっすぐに落ち、そしてガシャンと嫌な音がした。
周りの人にはそんな音は聞こえていないようだが、ぼくは慌ててリモコンに駆け寄った。
もともとボロかった外装に、日々が入っている。でも大きな音に反して、目立った外傷はそのくらいだった。このリモコンに電池という概念があるかどうかは分からないが、裏側の蓋のところは大丈夫そうだった。
ぼくはあまり酷いことになっていなかったと安心し、一応壊れていないかどうかを確かめようと思ってボタンを押した。
すると、目の前が一瞬歪んで、次の瞬間にはぼくは別の場所に立っていた。
それはどうやら定期健診の日に会社にやってくる車の中のようだった。何が起きたか分からず、目をぱちくりとさせた。手には相変わらずヒビの入ったリモコンがある。
混乱する頭を落ち着かせる前に自分の名前が呼ばれ、慌てて前に進むと、聴診器をつけた医師がこちらを見ていた。
それを胸に当てられながら、必死に考えを巡らせた。確か、近々検診の日があるとは聞いていた。たしかそれは3日後だったはずだ。
いつもと違うことが起きている。あの真っ暗な空間に入ることもなく、一瞬にして時間が飛んでしまった。ぼくは慌ててリモコンを確認した。早送りのボタンのその下には、小さくスキップという文字があった。
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