サンタクロース 中
その人の背中には、鯉が泳いでいた。
鮮やかな錦鯉が流れに逆らい、天に向かっている。
クリスマスの夜以来、男が部屋に来る回数は増えた。わたしはその度、彼を受け入れた。彼はいつも優しかったが、たまに全身に鳥肌が立つような殺気をまとっていることがある。きっとこの人は危ない人なのだと、本能が察知する。
それでもわたしは嬉しかった。一時でも誰かに必要とされたかった。わたしという人間がここに存在していることを、確かめさせてほしかった。
しかしそんな日々は長く続かなかった。
ある日、いつものように彼が部屋にいる時に、突然母さんが帰宅してきた。遅くなることはあっても、仕事が早く終わることなど今まで一度もなかったので、わたしも彼も油断していた。
その人は落ち着いた様子で服を着ると、部屋から出て行った。わたしはドアを見つめたまま、ドキンドキンと鳴り響く心臓の音と闘っていた。
やがて、母さんの悲鳴にも似た絶叫が聞こえてきた。
わたしはクマをつかみ、急いで押し入れへ行こうとした。しかし、その直前に母さんが部屋に入ってきた。
母さんの取り乱しようはいつにもなく酷くて、床に叩きつけられたわたしにはほとんど何と言っているか分からなかった。
ただ、首を締められて薄れる意識の中で、あんたなんか消えちまえと言われたことは、はっきりと覚えている。
目を覚ますと自分のベッドの上だった。起き上がると、体のあちこちが痛かった。そっと部屋を出る。様々な物が散乱した室内は、まるで強盗に襲われたかのようだった。二人の姿は見当たらなかった。
わたしは風呂場へ行き、鏡で自分の体を見た。あちこちにアザやすり傷ができている。わたしは首に手をやった。ここにはっきりとついている跡が、あれは夢ではなかったことを証明していた。
そのままシャワーを浴びた。はっきりとした否定を真正面から突き尽きられたのはさすがに初めてだ。涙が出るのは傷に水が染みるからだ。わたしはなかなか風呂場から出ることができなかった。
その日以来、母さんはまるでわたしがそこにいないかのように振る舞った。どんなに酷い言葉を投げかけられるより、痛めつけられるより、それが一番辛かった。わたしは母さんを裏切ったのだ。これは当然なのかもしれない。
なるべく顔を見せないよう、存在を煩わしく思われないよう、ほとんどの時間を自分の部屋で過ごした。
わたしはこれ以上母さんに嫌われたくなかった。もう好きになってもらえなくてもいいから、せめて娘であることを許してもらいたかった。
それなのに、あの人はまた部屋にやって来た。
初めて、わたしは彼を拒んだ。すると彼は力づくでわたしに迫ってきた。顔は笑っているが、その力は有無を言わさぬものがあった。逆らったら殺されると思った。
それはだんだん酷くなり、時には母さんが家の中にいる時にもやって来るようになった。わたしは声を出さないよう、血が出るほど唇を噛んで必死に我慢した。
愛や恋と呼ぶには未成熟だった想いは、憎しみへと変化した。しかし、それ以上に彼のことが怖かった。
それでも、クマのぬいぐるみを捨てることはできなかった。これは生まれて初めて貰えた、わたしだけのものなのだ。親戚のお下がりの服でも、居なくなった男のベッドでも、ゴミ捨て場にあったランドセルでもない。
わたしは今更、サンタクロースの存在を信じることにした。
サンタさんはやってくる。いい子にしていれば、クリスマスの夜にきっと訪れる。真っ赤な服を着て、寝ている間にその子がとびきり喜ぶプレゼントを置いていくのだ。
そうしてまた夏休みがやってきた。もう誰も、定期的にわたしに食べ物をくれる人はいなかった。あの人がたまにお酒をくれた。でもわたしは、固形物が欲しかった。
わたしはよく外に出るようになった。ある日突然母さんが部屋に入ってきて、エアコンのリモコンをどこかに隠してしまった。それでも無視されるよりは嬉しかったのだが、やはり押し入れにいると茹ってしまいそうになる。
外は地面が歪んで見えるほど暑かったが、それでも日陰にいれば時々涼しい風が吹いてきた。それに、公園に行けば好きな時に水が飲める。家ではタイミングを見計らっていかないと、トイレにも洗面所にも行けないので、わたしにはありがたかった。
それでもどうしても暑い時には、少し離れたところにあるスーパーへ行った。中に入ると、キンキンに冷やされた空気がわたしの全身を包んだ。そのスーパーは天国みたいなところで、運が良ければ自由に食べてもいい試食まであったのだ。
でも、通っていると店員のおばさんにジロリと睨まれるようになってきた。きっとおばさんはわたしがお客でないことを見抜いているのだろう。だから、そこへ行けるのは週に二、三回までだった。
ある日、どうしてもお腹が空いてスーパーへ行くと、ちょうどソーセージの試食が出されたばかりだった。わたしは近くにいた女の人の子供のふりをしてそこへ近づき、ジュウジュウ音を立てるソーセージを見つめていた。
しかし、空腹のために注意力が落ちてしまっていたようだ。それを焼いていたのはあの怖そうなおばさんだった。
おばさんはわたしを疑わしげに睨みつつ、一番小さな切れ端を差し出してきた。わたしはそれでも嬉しくて、すぐに受け取ってその場を離れると、急いで口の中へ押し込んだ。そして焼き立てのソーセージはこんなに美味しいのかと、初めて知ったのだった。
その後、ぐるりと一周してからすぐに店を出ようと思った。でも、ついお菓子のコーナーで立ち止まってしまった。そこにはもちろん買ってもらったことのない可愛らしい駄菓子がたくさん並んでいた。
それをじっと見つめていると、突然腕をつかまれてグッと引っ張られた。驚いて振り向くと、あのおばさんが怖い顔をして立っていた。
わたしは店の奥に連れていかれ、椅子に座らされた。ドキドキしたが、悪いことは何もしていないはずだ。だからそんなに緊張する必要はないと自分に言い聞かせ、気を紛らわすために室内を見回した。
狭い部屋にはたくさんのファイルが並んでいて、そこら中に紙が無造作に積んである。その中にアルバイト募集という文字を見つけた。
そうか、わたしも働けばあのお菓子だって自由に買えるのかな。もしかしたら、わたしが一生懸命お金を稼いでくれば母さんに喜んでもえらえるかもしれない。おばさんが鬼みたいな形相で睨んでいるのも忘れて、わたしは少し、ワクワクとした気持ちになっていた。
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