ラーメン食べたい
仕事が終わって外に出ると、もうとっぷり日が暮れていた。遠慮を知らない腹の虫が音を上げる。今日の夕飯はもう決めてある。
ラーメンが食べたい。昼間にふとそう思った。何がきっかけだったかは思い出せない。そういう時は大抵匂いで思い出していることが多い。きっと誰かがお昼に食べてきて、いい匂いを服につけて帰ってきたのだろう。唐突に脳内にあのヴィジュアルが浮かんできて、それが仕事をしている間中頭のどこかにずっとあったのだった。
昼食はいつも軽めに済ませるので、もう限界だった。わたしはヒールを響かせながら駅の方へと向かった。
会社の最寄駅はそれほど栄えていないが、数件お気に入りの店がある。仕事が終わって死ぬほどお腹が空いた今みたいな時には、たまに1人で食べて帰るのだ。そのラインナップの中に一軒だけラーメン屋もあった。
カウンター席と若干のテーブル席。頑固オヤジではなく落ち着いた若い男性が店主をつとめているお店で、女性客やお一人さまもたくさん食べにきている。黒く塗られた店内はいつも綺麗に掃除されていて、湯気の熱気に溢れてはいてもガヤガヤと煩くないため、入りやすいのだ。
店内環境もさることながら、味ももちろん気に入っていた。今の気分は醤油ラーメンだ。ガツンと味の濃い黒いスープが縮れ麺に絡みついて、それを半熟の煮卵とともに頬張る。限界までお腹を空かせたときの一口目は感動的な美味しさだ。
ネギとチャーシュー、シナチクは必須で。スープまで飲み干す勢いでがっつくの自分が容易に想像できた。
そこの角を曲がればお店が見えてくる。寂しい駅でもたまに混んでいることがあるのだが、遅い時間なので多分空いているだろう。
とにかく一刻も早くラーメンが食べたい。自然と早足になっていた。勢いのままに角を曲がる。よかった、店の前には待っている人はいない。
だが、近づくにつれてだんだんと嫌な予感が湧いてきた。
店の窓から明かりが漏れていないような気がする。わたしは血の気が引いていくような思いだった。入り口に駆け寄ると、火曜定休日の札がかかっていた。
そんな。ここまできたのに。
わたしのラーメン欲はやっと解放されると思っていたのが急にNOを突きつけられたので、行き場を無くして暴れ出す寸前だった。
なんとかそれを堪えながら、駅に向かってUターンした。ここまで高まってしまったものはもうどうしようも無い。わたしは絶対にラーメンが食べたかった。
だがしかし、この周辺にはいいお店はない。どうしたものか。
歩きながら最適解を求めた。考えていたことがダメになったとき、わたしはいつもこうやって頭を悩ませるのだ。これが無理だったらこれ、という案を用意することなく、とにかく一番いいと思ったものに向かって突っ走る。お腹が極限まで空いているときは尚更だった。
だから、その次にいいと思った案が決定すると、多少の無理をしてもその目標に向かって突撃してしまう。わたしは空腹を抱えたまま電車に飛び乗っていた。家の最寄り駅の方が栄えていて、選択肢が増えると判断したからだ。
遅い時間にもかかわらず、下りの電車は混んでいた。車内は蒸していた。ギリギリ人と接触しない空間に体をねじ込む。今のわたしには次の電車までの10分だって待ってはいられなかった。
やっとの思いで最寄りに着くと、わたしは一番栄えている改札口へと急いだ。ここの街は学生街なので、安いチェーン店やガヤガヤした居酒屋っぽいところが多く、夕飯に利用するとしてもあまり店を知らなかった。
それでも記憶を頼りに、いつか見かけたラーメン屋を片っ端から回って行った。しかし、なかなかいいお店に出会えない。会社の近くの、もう一つあったラーメン屋をスルーしてここまできたのだから、あの店よりはいいと思ったところへ入りたい。狭ずぎず、広過ぎず。こってりしたとんこつメインの味も、さっぱりしすぎな中華そばも今は眼中にない。
だがしかしやはり学生の街だ。あるのはサラリーマンがぎゅうぎゅう詰めになっているあまり換気のよくなさそうなお店か、大手のこってりチェーン店だけだった。
これならスルーしたラーメン屋の方がまだよかった。妥協も諦めもつかないわたしは、カバンを抱えて歩き回った。この街についてからかれこれ20分はこうしている。
どうしていつもこうなるんだろう。泣きそうな気分になりながら必死にあたりを見回すと、少し入り組んだところに良さそうな店があった。
内装も雰囲気も、1番目のあのお店に似ている。ほら、探せばあるじゃないか!
わたしはパンパンになった足を引きずるようにして、店のドアにしがみついた。
「ごめんなさい、もう本日分の麺がなくなっちゃったんですよ」
そう言ってきたのはわたしよりも5つも若そうな男の店員だった。言葉の意味がわからず、固まってしまった。しばらくかなりアホっぽい顔を晒していたことだろう。
すみません、という店員の言葉に我に帰る。わたしはそっとドアを閉めた。
とぼとぼと帰路に着くわたしは、まだ何も口にしていなかった。
じゃあここは、ここは、とそれまでスルーしてきた店に戻ったのだが、どこももう閉店の時間になっていて入れなかったのだ。足もお腹も、なにより心が限界だった。
一軒だけ家の近くに手書きのメニューが並ぶラーメン屋が開いていたが、この前通りかかった時に、その店からおじさんが出てきてで立ちションを始めたので入る気にはならなかった。
遅くまで空いている閉店間際のスーパーに入る。レンジ調理のラーメンも、自分で茹でるものにももはや惹かれない。
わたしは完全にラーメンに敗北したのだった。
値引シールの貼られた冷やし中華を買って、それを食べたあとは、疲れ切って早々に寝てしまった。
真夜中、キッチンの方からガタゴトと音が聞こえて目が覚めた。おそらく半同棲中の彼が帰ってきたのだろう。今日の出来事を消化しきれなかったわたしは、話を聞いてもらおうとリビングに出た。
「ごめん、起こしちゃった?」
彼は申し訳なさそうな顔をして振り返った。
「ううん。何作ってるの?」
深い鍋を手にしているので聞いてみると、彼はなにやら赤茶色の袋を冷凍庫から出した。
「食べる?」
それはコンビニで売られている冷凍のラーメンだった。
味気ない素ラーメンがわたしの前に出される。ネギもチャーシューもシナチクもない。一口すすると、物足りない醤油味のスープが口いっぱいに広がった。
それでもわたしは、2人で並んで食べるこの真夜中のラーメンが、今までで一番おいしいと感じたのだった。
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