ゆめかん 上
真夜中、真っ暗な住宅街の道に自動販売機の明かりがぼうっと浮き上がる。その前をふらつきながら通りかかった俺は、喉の渇きを覚えてポケットの小銭を入れた。
ガゴンと音がしてペットボトルの水が出てくる。しゃがんでそれを取ろうとすると、吐き気がこみ上げてきた。調子に乗って飲み過ぎたようだ。
蓋を捻って水を喉に流し込む。一気に半分ほど飲むと、少し気分がマシになった。
そのまま立ち去ろうとする俺の耳に、ピピピピという電子音が届く。振り返ると、自販機がチカチカと点滅していた。故障かと思ったが、どうやら”数字が揃ったらもう一本もらえる”というアレに当たったようだ。
騒がしい音を立てながら点滅を繰り返す自販機は、ピッという音と共に全てのジュースのボタンが点灯し、静かになった。
「ラッキー」
俺は戻って炭酸飲料のボタンを押そうと手を伸ばした。その時、右下に妙な商品があることに気がついた。
カラフルな商品とは打って変わって、シンプルな缶のディスプレイが並んでいる。その周りだけ、電球が切れて薄暗くなっていた。
普通のドリンクの缶より短くて太い。俺の家に通っている女がパスタを作っていった時に捨ててあったトマト缶を思い出した。中腹に黒色で文字が書いてある。
「……ゆめかん?」
ほとんど炭酸飲料を押しかけていた指が、気づけばそちらへ向かっていた。酔っていたこともあり、好奇心が勝って俺はそっちの商品のボタンを押していた。
家に帰る頃にはペットボトルの水をほとんど飲み干していた。終電が終わっていて家からかなり離れた駅から歩いて帰ってきたこともあり、俺の酔いは大分醒めてきていた。とりあえずシャワーを浴びよう。そう思ってズボンを脱いだ時、何かがゴトンと音を立てた。先ほどポケットにねじ込んだあの缶だ。
「ああ、そうだった」
俺はそれを拾い上げ、机の上に置いた。
風呂を上がると、小腹が空いてきていた。何かないかとキッチンを物色する。あの女が来ていたのか、冷蔵庫にはメモ書きのついたグラタンが入っていた。俺はため息をついて冷蔵庫を閉める。脂っこいものの気分ではないし、そもそもあの女の料理は味が薄くてまずいのだ。
他に何かないかと探したが、冷えていない缶ビールが見つかっただけで、それといって良いものが見つかることはなかった。
「しけてんなぁ」
そう言いながらテレビをつけようとすると、あの缶が目に入った。そういえばこれは何が入っているのだろう。俺は缶を持ち上げてみた。
缶はずしりと重たくて、降ってみると何か液体が入っているようだった。だが、丸みのあるフォントで『ゆめかん』と書かれている以外は、特に何も表記がない。ただ、ひっくり返したところに賞味期限らしき数字が印字してあった。それによると4年くらいもつらしい。
考えても仕方がないので、俺はそれを開けてみることにした。ぴったりくっついたプルタブを爪で持ち上げて引っ張る。思ったより硬かったが、缶は簡単に開いた。
その瞬間、部屋の中に牛のしぐれ煮のような良い匂いが立ち込めた。中を見ると、ゴロゴロとした肉の塊が入っていた。やはり食べ物だったようだ。ちょうど味の濃い物を欲していたこともあり、腹の虫が鳴った。
だがしかし、何の肉かも分からない物を口にするのは抵抗がある。自販機の中にあった製品とはいえ、警戒はするべきだろう。なにせ、成分表すら書かれていないのだ。あの自販機を管理している素人が作った物かもしれない。流石に毒は入っていないだろうが、腐っていることだってありうる。
どうするか考えあぐねていると、ガチャガチャという音が玄関の方から聞こえてきた。そして、あの女が入ってきた。
「あ、たっくん居たんだ」
酒とタバコの匂いに、濃い化粧。働いているスナックの帰りだろう。いつみても到底美人とは思えない上に、接客の腕もイマイチだった。当然こいつを可愛がっている客もほとんどおらず、前歯の間にでかい隙間があるじいさんだけが唯一ねちねちとしたアプローチをかけていた。
どういう経緯だったか忘れたが、そんな女が俺の家を度々訪れていた。好きなところなど一つもないが、妙に羽振りがいい時があるので縁を切らずにいる。おそらくあのじいさんにたんまり貢いでもらっているのだろう。
「なぁに? それ」
荷物を置きながら、缶を覗き込んでくる。俺は立ち上がり、平皿を持ってきた。
「牛のしぐれ煮缶だよ。お前、食っていいぞ」
缶の中身を皿にひっくり返す。少しとろみのある茶色の液体が、肉に滴っていた。
「え? いいの?」
女はぐにゃりと顔を歪ませた。これで精一杯笑っているつもりなのだから、客がつかないのも当然だ。
俺は皿を女に押しやった。女は箸を持ってきて、肉の破片を頬張った。女の様子を観察する。女は旨そうに咀嚼しながら、次の肉へと箸をのばす。
その様子に思わずゴクリとつばを飲んだ。
「味どうだ?」
「おいしいよ。たっくんも食べなよ」
そう言うと女はもう一切れ肉を食べてから、皿を俺の前へと差し出した。
「私はもういいから、やっぱりたっくん全部食べなよ」
女は立ち上がり、風呂場へと消えて行った。肉を前にしながらも、俺はやはりもうしばらく様子をみることにした。シャワーの音が聞こえてくる。そのうち、下手な鼻歌まで聞こえてきた。女は特に倒れたり、苦しがったりすることもなさそうだ。
多分大丈夫だろう。俺は箸を取って、肉を一つつまみあげた。匂っただけで、早くそれにむしゃぶりつきたいと言わんばかりに口の中に唾液が溜まってくる。味音痴のあいつでも、流石に腐っていれば分かるだろう。俺はその肉片を口に放った。
それは老舗の佃煮屋で買ってきたと言われてもおかしくないほどの旨さだった。歯応えのある肉は、噛めば噛むほど味が出る。味が濃いので何の肉かは判別できなかったが、見た目と食感は牛に似ている。ほのかに乳臭い気もするし、それがいいアクセントになっていた。
俺は先ほど見つけた冷えていないビールを開けて、口に含んだ。ほのかな苦味が濃い醤油の味に最高にマッチしていた。冷えていればもっと最高だっただろう。残りのビールを冷蔵庫に入れて、ちまちま肉をつつきながら夜明けの晩酌を楽しんだ。
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