催涙雨 下
「久しぶり」
声をかけられて振り返る。モノクロの橋の上に誰かが立っていた。モヤがかかっていて姿がよく見えない。
一歩足を踏み出すと、むにゅりという感触がした。足元を見ると、モノクロの橋だと思っていたのはパンダの列だった。パンダは熱心に笹を食べていて、踏まれたことに気づいていない。だからといって、このかわいい顔を踏みつけるのは抵抗があった。
「おーい!」
橋の上の誰かが叫んだ。どこかで聞いたことがあるような声だった。私はあそこまで行かなきゃいけない。そんな衝動に駆りたてられた。
パンダは川を分断するようにして並んでいる。水は深い青色をしていて、どこまで深いのか分からなかった。とても浅い川だとは考えられないのだが、パンダたちの上半身は水から出ていた。もしかしたらちょうどそこだけ浅くなっている部分がまっすぐ続いているのかもしれない。
その人のいる場所まで泳ぐことはできそうにない。それに、私にはなぜかそのパンダが「橋」であるという確信があった。
「ごめんね」
私はパンダの後頭部にゆっくりと足を乗せた。
一歩踏み出す度にむにゅむにゅと足元が崩れて歩きにくい。パンダは気にした様子もなく、モサモサと食事を続けている。そんな調子なので、すぐに行けると思っていた橋の真ん中まではなかなか辿り着けない。加えて、そこまでは思っていたよりも何倍もの距離があった。
近づけば近づくほど遠くなる、そんな印象だった。その人はこちらを見て大きく手を振っている。バランスが崩れ、尻もちをつく。それでも私は進みたいと思った。
這うようにして近づくと、少しずつその人の姿が見えるようになってきた。背が高くて、がっしりしていて、肌は日に焼けて真っ黒だ。顔にはまだモヤがかかっていたが、知らぬ間に私の頬には涙が流れていた。
あの人は一体誰だろう。分からないけどとても懐かしい。どうしても思い出せないけど、私にとってとても大切な人のはずだ。
再び立ち上がり、その人へ向かって走り出した。
「お母さーん!」
もう少しで辿り着く、そんな時に背後から声が聞こえた。子供の声だ。私は振り返った。
さっきまで私が居た岸に、甚兵衛のような服を着た男の子が立っていた。両手を口元に当てて、大声で誰かを呼んでいる。
「お母さん!」
その子のことが誰だか分からなかった。でも、その子が呼んでいるのは間違いなく私のことだと分かった。
「夏彦……」
自然とつぶやいていた。
その瞬間、足元が大きくぐらついた。
あの人と私のちょうど真ん中あたりのパンダが飛び上がったのだ。そのまま大きなウェーブをかくように、パンダの橋が波打った。その波の頂点は、今まさに私のもとへと訪れようとしていた。
足元のパンダが、先に続いて思い切りジャンプする。私は驚くまもなく、次の瞬間にはもう宙に放り出されていた。そのまま弧を描くよにして、もといた場所へと跳ね返される。
岸にいた少年は私を受け止めようと大きく手を広げた。そうだ、あれは私の大切な息子、夏彦じゃないか。どうして今まで気づかなかったのだろう。
「夏彦ぉ!」
私は力のかぎり叫んだ。夏彦はちょうど私が着地するであろう場所から動かない。このままでは大事な息子に怪我をさせてしまうかもしれない。
「夏彦、だめ、どいて!」
「お母さん!」
それでも夏彦は両手をめいっぱい広げて立っていた。私はなすすべもなく、その両腕のなかに向かって落ちている。せめてもと、私は夏彦に向かって手を伸ばした。
伸ばした手と手が触れ合う。私はそのまま夏彦をぐいと引き寄せ、抱きしめた。硬い地面に叩きつけられる。そう覚悟した瞬間、覚えのあるむにゅりとした感触に全身を包まれた。
そっと目を開ける。腕の中には夏彦がいた。ゆっくり見上げると、先ほどとは比べ物にならないくらい大きなパンダが私たちの背後に座っていた。パンダのお腹がクッションになってくれたのだ。大きなパンダは、何事もなかったように笹を食べている。
ふかふかの毛にくすぐられて、腕の中の夏彦が笑った。
「夏彦、大丈夫?」
「うん!」
夏彦はじっと私を見つめた。その目は、大好きなあの人にそっくりだ。私は夏彦をぎゅっと抱きしめた。
振り返ると、パンダの橋は途中で崩壊していた。大きくジャンプをしたパンダたちは、そのままぷかぷかと川に浮いていた。両手両足を広げて、気持ちよさそうにクルクルと回転し、なおも笹を食べ続けていた。
残った橋の上にはまだあの人が立っていた。私は河岸に近づいた。
もうモヤはかかっていない。私ははっきりと思い出した。
大好きなあの人は、変わらない笑顔でそこに立っていた。
何か言おうと口を開いた瞬間、気持ちの良い眠気がふってきた。抵抗のしようもなく、意識がまどろんでいく。ぼやけた視界の中で、あの人の声が聞こえた。
『大丈夫、大丈夫』
『ずっとずっと忘れないよ』
私は返事がしたかった。でも、心地よい眠気の中、ただ笑って頷くことしかできなかった。
「お父さん、またね」
すぐ近くで、そんな声が聞こえた気がした。
目が覚めるといつもの布団に横たわっていた。溢れ出ていた涙を拭いながら、今起きたことをゆっくりと思い出す。
私はぷっと吹き出した。年甲斐もなく、なんてファンタジーな夢をみてしまったのだろう。
その時、隣の襖が勢いよく開いた。
「お母さん、晴れた!」
パジャマ姿の夏彦が駆け込んできた。つられて窓を見ると、外には青空が広がっていた。
「夜中に雨があがったみたいね」
「七夕、間に合ったかな」
窓にしがみついていた夏彦がくるりとふりかえった。私は立ち上がり、手を伸ばす。そうして恥ずかしがる息子を無理やり抱きしめた。ついさっきまでこうしていたような、随分としていなかったような、不思議な気持ちだ。
「間に合ったわよ、きっと」
夏の日差しが入り込む窓には、てるてる坊主が誇らしげに吊り下がっていた。
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