催涙雨 上

 七月七日。今年も、雨が降っている。

 窓から外を見上げていると、息子の夏彦がやってきた。

「あーあ、今年も会えないね」

 夏彦はカーテンレールに吊るしたてるてる坊主を憎らしげにツンツンとつついた。


 天の国には一年に一度だけしか会えない夫婦がいて、二人は大きな川のせいで離れ離れになっているのよと教えたのはいつのことだろう。どうしてと理由を聞く夏彦に、二人は仲が良過ぎて遊んでばかりいたから天の神様が怒ったのと答えると、そっかと納得したようだった。

「でも、船で渡っちゃえばいいじゃん」

 夏彦は振り返って私を見た。

 少し考えてから、お船は沈んじゃうこともあるでしょと言うと、夏彦は黙ってうつむいた。私はまだ幼い息子を抱きしめて、七夕伝説の続きを話した。

「大丈夫、七月七日になると、どこからともなくカササギがやってきて、川に橋をかけてくれるの」

「カササギ?」

「鳥の仲間よ」

「どんなの?」

 すぐに答えることができずにいると、夏彦は机に置いてあった私の携帯を持ってきた。カササギと文字を打ち、検索ボタンを押す。普段の私を見て覚えたのか、最近は分からないことがあるとすぐに携帯を借りに来るようになった。教えてもいないのに文字の打ち方も、アプリの開き方も完璧だ。圧倒されつつも、これが次の世代にとっては当たり前なのだと感じた。

 画面いっぱいにツートーンの鳥が出てくる。顔と尻尾が真っ黒で、お腹と翼の先は白色の鳥だ。なんとなく白くて大きな鳥やもっと綺麗なのをイメージしていたので、カラスみたいだなと顔をしかめていると、夏彦が笑いながら画面を指差した。

「パンダ!」

 子供の発想力にはいつも驚かされるばかりだ。私は少しカササギのことが好きになれそうだと思った。小さな頭をゆっくり撫でた。夏彦はくすぐったそうにふふふと笑っている。

「そうね、パンダみたいね」

「これが飛んでくるの?」

「そう。たくさんのカササギがやってきて、二人はその上を歩いて会いに行くのよ」

「ふーん」

「でもね、もしもその日に雨が降ると、二人は会えないの」

 夏彦はつぶらな瞳で再び私を見つめた。その目は、やはりあの人のことを私に思い出させるのだった。

「どうして?」

「雨で川の水が増えてしまうから、橋を作ることができないの」

 気づかれないようそっと目をそらしながらそう答えた。

「そっか。今年は会えるかな」

 夏彦は窓の外を見た。

「きっと会えるわよ」

 そう答えたが、私はきっと今年も雨が降るだろうと、どこかで思っていた。


 それから二人で何度か七夕を迎えたが、一度も晴れることはなかった。夏彦はある時から毎回てるてる坊主を作って祈るようになった。ティッシュを丸めて顔を書く。神様にちゃんとお願いできるように、口は開いてないといけないんだというこだわりもあるようだ。最近では紙と爪楊枝を使って、小さな傘まで作るようになった。

 七夕が近づくといつもはあまり興味がなさげな天気予報を気にしだし、七日の欄に太陽のマークが付いたのを確認すると一日中ニコニコとしていた。しかし、天の神様はどうしても二人を会わせたくないのか、そこからだんだんと雲行きがあやしくなっていき、当日には予報が外れるのだ。

 息子はその度に心からがっかりした様子でてるてる坊主をしまうのだった。


 窓に映るてるてる坊主の顔は、どことなく申し訳なさそうだった。夏彦につつかれてゆらゆらと揺れている。

「このままずっと会えないのかなぁ」

 夏彦がつぶやいた。私は窓のカーテンを閉めた。

「きっと大丈夫よ。ほら、晩ご飯の支度手伝って」

「はぁい」

 夏彦は進んでいろんなことを手伝ってくれる。私が働いている間に一人で留守番をしていることも多いので、色々と我慢をさせているのではないかと心配に思うのだが、夏彦は嫌そうなそぶりもみせずに家事をしてくれるのだった。

 文句の一つも言わずに、いつも明るくて底抜けに優しい。そんなところも息子はあの人にそっくりだった。


「ねぇ、お母さん」

 野菜を洗いながら夏彦が聞いてくる。

「ん?」

「もし二人がずっと会えなくて、そのままどっちかがかたっぽのこと忘れちゃったらどうしようか」

 私は思わず手が止まった。なぜか、その言葉にどきりとした。

「大丈夫よ、とっても仲がよかったんだから」

「でも、何年も何年もずっと会ってないんだよ」

 夏彦は手を止めずに聞いてきた。

「大丈夫よ、そんなに簡単に忘れるわけないじゃない」

 大丈夫、大丈夫。その言葉はまるで自分に言い聞かせているようだった。

「そうかなぁ」

 夏彦は納得がいっていない様子でトマトのへたを取っていた。


 その夜、私はなかなか寝付くことができなかった。夏彦は襖を隔てた隣の部屋で寝息をたてている。雨の音がやけに耳障りだった。

 七夕に降る雨のことを、催涙雨と呼ぶらしい。会えない二人の流した涙が、天からこぼれ落ちてきているのだ。その雨こそが、私には渡ることのできない川のように感じられた。


 夏彦が産まれてすぐに夫は亡くなった。夫は船乗りで、ある雨の日に漁に出て行ったきり帰ってこなかったのだ。

 早朝、家を出ようとする夫を見て、私は少し心配になった。

「どうしても行かなくちゃいけないの? もともと休みの日じゃない」

「どうしてもって代わりを頼まれたからなぁ、仕方ないよ。それに、休みはその分週末に取れることになったから」

「でも、なにもこんな雨の日に漁に出なくても」

「大丈夫、大丈夫。今までだってこんな日はたくさんあったんだから」

 夫はにこりと笑った。日焼けした黒い顔に真っ白な歯がよく映えたそれは、私が大好きな笑顔だった。

「それに、今のうちに稼げるだけ稼がないと」

 抱えていた夏彦がぐずり出す。私は夏彦をあやしたが、なかなか泣き止まなかった。

「夏彦っ」

 夫が両腕を差し出した。私は息子をその腕の中に託した。夫はいないいないばあをして夏彦をあやし始めた。しばらくすると、息子は笑い声をあげた。

「それじゃあ、頼んだよ」

「気をつけてね」

「おう。行ってきます」

 雨合羽を着た夫は、荷物を抱えて雨の中に消えて行った。

 昼過ぎになって、夫の乗っていた船と連絡がつかなくなったという知らせが入った。


 捜索の末、夫は変わり果てた姿で浜辺に打ち上げられているのを発見された。未だに見つかっていない人たちもいる中、ちゃんと遺体を弔うことができたのはほんの数名で、夫もその中の一人だった。

 でも私は、むしろ見つかってほしくなどなかった。冷たくなった体がはっきりとした別れを突きつけてくるようだった。青ざめた顔はもう二度と笑いかけてくることはない。不謹慎に思われるかもしれないが、見つからなければどこかで夫は元気に生きていて、いつかまた会えると信じていられたように思えてならないのだ。

 あの日夫に代わりを頼んだ同僚は、どう言っていいのか分からないという顔で頭を下げた。この人のせいじゃない。そう思いながらも、言葉にすることができなかった。

 本当に心にポッカリと穴が開いたようだった。葬儀が終わってしばらくの間は、何もできる気がしなかった。しかし、幼い我が子を抱えていてはそんなことも言っていられない。すぐに仕事を探し出し、そこから目まぐるしい日々が始まった。


 夏彦が産まれたのは夏だった。そして、あの人がいなくなったのも夏だった。

 七夕を迎える度に夏の始まりを感じ、私はまた何か人生を大きく変化させることが起きるのではないかとドキドキしていた。

 天の国と地上とで分たれた夫婦は、一体どうしたらいいのだろう。


『このままずっと会えないのかなぁ』

『忘れちゃったらどうしよう』

 

 夏彦の言葉が、頭の中にこだましている。それを振り払おうと、必死に目をつぶった。雨の音がさっきよりも強くなったように感じる。

「大丈夫、大丈夫」

 気づけば小さな声でつぶやいていた。これは誰の口癖だっただろう。そうしているうちにだんだんとまぶたが重たくなり、雨の音が遠のいていった。






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