苔の壁
目が覚めた瞬間、寝坊したことを確信した。
飛び起きて傍の時計を見ると、いつもより45分も長く寝ていたと分かった。何度もけたたましく鳴っていたはずのアラームの中、どうしてこんなに眠っていられたのだろう。
私は立ち上がり、支度を始めた。
朝はいつも身だしなみにじっくりと時間をかける。半端な格好で人前に出るなど、私には考えられない。同じ課に髪の毛をとかしてすらいないのではないかという年上の女社員がいるが、のそのそと動く彼女を見て私はいつもイラついている。
朝食を食べている余裕はない。急いで顔を洗い、髪をセットしてメイクを仕上げる。本当はもっとやりたいことが沢山あるが、仕方がない。出来はいつもの6割程度だった。
身なりがピシッとしていれば、気持ちの面でも一本芯が通ったような気になれる。とにかく勤務時間に遅れるわけにはいかないので、細かな手直しは休憩時間まで我慢しよう。
パンツスタイルのオフィスカジュアルに急いで着替えて玄関へ向かう。しかしそこで最悪の事態に気がついた。雨が降っているのだ。
小雨だが、急いでいる自分にとってはこれ以上に憂鬱なことはない。早歩きで行けば電車には間に合うだろうが、おそらく靴元はひどく汚れることだろう。
だが、もう行くしかない。傘を手にとり、ため息をつきながら外へ出た。
駅までは約10分の距離だ。遠いわけではないが、特に雨の日にはもっと近くに住めばよかったと後悔してしまう。まあ、その分喧騒からは離れて暮らせるのだが。人通りの少ない住宅地の間を、低めのヒールの音を響かせながら急いだ。
なぜ朝起きられなかったかといえば、地元の友人のせいだ。平日の夜にもかかわらず、遅くまで恋愛相談に付き合わされたのだ。酒を飲みながら泣く彼女はなかなか電話を切らせてくれなかった。普段はいいやつなのだが、男が絡むと途端にダメになる。
気づけば奥歯を噛み締めていた。どんなに意識しても、やはり癖を直すのはなかなか難しいもののようだ。今日は朝から何もかもうまくいっていない。寝不足のせいか身なりが気になるからか、どうにもイラついて仕方がない。
そのようなことに気を取られていたからだろうか。細い道を抜けて大きな道路に出たちょうどその時、横断歩道の信号が赤に変わった。もう少し手前で気づいていれば、走って間に合ったというのに。苛立ちにさらに拍車がかかる。この信号は赤になると長いのだ。
ここで待つより、先に進んでしまおう。駅まではこの微かに山なりになった道をまっすぐ行けば着く。
駅の目の前に、もう一つ信号があるからそっちで渡ればいい。そこでもタイミングが悪ければ、待たされる時間はこことさほど変わりはしないが、今この気持ちで足を止めてしまえば私の奥歯はさらにすり減ることになるだろう。
車道は両側に歩道があり、右に向かって緩やかにカーブしている。そしてその両サイドは高い壁に挟まれていた。頭上には住宅地が広がっている。高地をこの道がちょうど分断するように通っているのだ。
私は壁の真横を歩いていた。
雨はひどくはないが、時折傘を持つ私の手や前に踏み出した足を濡らすのでかなり不愉快だった。
これ以上眉間にシワを作らないようにすることにだけ集中して歩いていると、壁の中腹に立っている人に気がつかなかった。避けなきゃなとぼんやり考えながら男を観察する。30代くらいの男性で、傘もささずに壁に向かって何かをしている。男との距離がだんだん縮まってくる。急いではいるものの、ついつい目で追ってしまう。
男は、壁を引っ掻いていた。
ぎょっとしてよく見ると、石でできた壁の隙間にびっしり生えた苔を剥がしているようだった。
壁の掃除をしているのかとも思ったが、そうでもなさそうだ。男は会社に行くような格好で、左手には通勤鞄を持っていた。目は虚で、苔をむしる指は黒ずんでいた。
男の足元には、剥がされたばかりの深緑色の苔がいくつも転がっている。それは道のように転々と、奥にある壁の始まりまで続いていた。苔の落とされた壁はきれいになっていた。ずいぶんとたくさんの苔が生えていたようだ。
雨に濡れるのも気にせず一心不乱に壁に対峙するその男と、私はなるべく距離を置いて通り過ぎようとした。しかし、通り過ぎざまに何かぶつぶつと呟いているような、不気味な声が聞こえてしまった。
私は寒気を覚えた。あんな人、今まで見かけたことがあっただろうか。いつもあの辺にいて、今日はたまたま私が家を出るのが遅れてしまったために目撃したのだとしたらどうしよう。私は近所に不審な人が住んでいるのではないかという考えをかき消すため、さらにスピードを上げて駅へと向かった。
仕事にはなんとか間に合った。でも、業務中にいつもではしないようなミスをいくつかしてしまった。身なりのジンクスのせいか、それとも朝のあの異様な光景のせいか……やはり今日はついていない。そのせいか、ついには後輩の致命的なミスの責任の一端も担わされる羽目になってしまった。
尻拭いのためにいつもより帰りが遅くなった私は、ようやく最寄りの駅に着いた。その前の道も、こんな時間ではもはや車通りも少なくなっている。街頭もあるので心細くはないが、それでもしんとした道を歩くと、なんだかいつも以上に疲れた気分にはなる。
雨は上がっていたが、どこかに寄って帰る気分ではない。今日はさっさと帰ってゆっくり休もう。そう思って歩いていると、ふと苔の生えた壁が目に止まった。
私は足を止めて壁を見た。そこは、今朝方あの不審な男が苔を剥がしたはずの壁だった。私はぼんやりと朝の光景を思い出した。確かこの場所は、まさに男が立っていて、一生懸命に苔を毟り取っていた場所のはずだ。あの時壁はきれいになり、男の足元には苔の山ができていた。
しかし、目の前の壁にはびっしりと苔が生えていた。地面にも苔は一つも落ちていない。
私は奇妙な気持ちになった。苔というのは、そんなに早く生えるものだろうか。ジメジメした日だったとはいえ、流石にそんなことはあり得ないだろう。
では、この苔はもしかして一度剥がしたのをもう一度くっつけたものだろうか。
気がつけば、一つの苔に手が伸びていた。そのまま人差し指の先でつんとつつくと、苔はポロリと転げ落ちた。その瞬間、なんともいえない快感のようなものが指先から私の中を通り過ぎた。それは緩衝材の小さな空気の塊を潰した時よりも、遥かに気持ちの良いものだった。
苔は、くっつけられたものではなく確実にそこに生えている、と感じた。もふもふとした苔の表面の感触と、微かな弾力が指先にしっかりと残っている。私は思わずその隣の苔にも手を伸ばす。しかし、あちらから来た車のヘッドライトに照らされた気がして、慌ててその手を引っ込めた。
いい歳をした女がこんなところで何をやっているのだろう。急に恥ずかしくなり、私は何事もなかったかのような振りをして、残りの家路を急いだ。
しかし、家で過ごす間中私は気づけば自分の指を見つめていることになる。コロリと苔が落ちる時のあの感覚が、指先から離れなかった。湯船に浸かりながら、テレビを見ながら、持ち帰った仕事をしている途中にだって、ふと気がつけば私は奥歯を噛み締めながらじっと指先を見つめているのだった。
翌日、私はいつもより少し早い時間に家を出た。どうにも苔のことが気になって、ほとんど眠ることができなかった。もはや頭の中はあの感触を一刻も早く味わいたいという欲求でいっぱいだった。
あの壁にたどり着く。私はさっとあたりを見渡した。いつもなら何台か車が走っていたり、人が歩いていたりするのだが、今は誰もいないようだ。
しめた、と思った。
私は壁に駆け寄った。壁にはびっしりと苔がむしていた。
震える手を苔に伸ばす。その指先が緑色の少し湿った、生き物にもにた弾力のあるものに触れた。私はそれを地面に落とそうと、力を込める。それは微かな抵抗の末にいともあっけなく、ポトリと落ちた。
気がつけば私はそこから壁の中腹まで苔を落とし続けていた。手は真っ黒に汚れている。服にも多少の土がついていた。私の横を通り過ぎる人が、不審そうにこちらを見ている。自分でも、何が起こっているのかがわからなかった。
それ以来、私の生活は変わってしまった。壁の苔はどれだけ落とそうとも、毎日きれいに生え揃っていた。そこの前を通るたび、私は苔に触れずにはいられなかった。
服が汚れようが、髪が乱れようが知ったことではない。苔を毟っている間は、嫌なことも不安なことも、全て忘れられるのだ。それに触れている間は、歯を食いしばることもない。もっと触りたい、もっとこの感触を……。仕事に遅れることも、朝から始めて気づけばとっぷり日が暮れていることも、もはや珍しいことではなかった。
そういえばいつかの会社員を見かけたような気がする。彼は健康そうな顔つきで忙しなく私の横を通り過ぎて行った。私はその時何かを悟りかけたが、この苔の前ではどうでもいいことであった。
私は今日も壁の端から端まで、全ての苔を落とさなければいけないのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます