眠らない男 3

 翌朝、俺は重たい体を引きずりながら職場へ向かった。10時半くらいに引き上げるつもりが、結局12時近くまで居たのだから当たり前だ。家に着く頃には1時をまわり、布団に入ったのは3時過ぎだった。


 俺が抜けた後もまぁまぁな人が残っていたというのに、出社してみるとあの場にいた人は皆ちゃんと揃っていた。といっても、そのほとんどがグロッキーな顔をしていたが。

 結局昨日はあのままダラダラと長引き、酔ってさらに面倒くさくなった部長をタクシーに乗せたのが午前1時半過ぎだったらしい。入社6年目で1つ年上の上司が青い顔をして教えてくれた。

 そんな中でも、後輩の奴はうまくセーブして飲んだのかもともと体力があるからか、ケロッとした顔をしていた。


 昨夜一番楽しんでいたであろう部長は朝清掃の時間ギリギリにやって来た。話によれば大分ベロベロの状態だったらしいが、今はそんなことを微塵も感じさせない。結構な歳だと思うが無駄に体力があるようで、おそらくあの後輩が歳を取ったらあんな感じになるのだろうと思った。

 厄介なことにそうやって今まで生きてきたものだから、まさか自分より若い人たちが火曜日にして心底疲れ果てているということに気づけないのだろう。

「みんな、笑顔が足りてないぞ! ほらほら、今日もがんばっていこう!」

 近くにいたかわいそうな社員の背中をバシバシ叩きながら、大きな声でそう喚いた。


「みんなバラバラにやっていたらムラが出るから、今日から割り振りを決めようと思う」

 長い朝礼にあくびを噛み殺していたところ、そんな言葉が聞こえてきた。


 部長がここにやってきたのは先週の真ん中で、朝清掃が始まったのはその翌日からだ。それから今までは特に担当などは決まっておらず、みんなそれぞれに自分のデスクや給湯室など、適当なところを掃除していた。

 ちなみに、先週末は部長がどうしても帰宅しなければならないとかで、歓迎会が月曜日などという強行スケジュールになったのだった。


 疲れ切った周りの社員たちも俯き気味に朝礼を聞いている中、割り振りという言葉に全員が一斉に顔を上げた。それぞれ、嫌な予兆を感じ取っているような顔だった。

 部長は部屋にいるメンバーを片っ端から指差して、それぞれに担当の場所を命じていった。


「君は会議室。ええと君は……そうだな、コピー機周辺の書類の整理で」

 聞いている限り、何かアルゴリズムがあるわけでもなくその場で適当に考えているようだった。その任命が徐々に自分に近づいてくる。そして、言われたのがこうだった。

「うん、君はトイレ掃除ね」


 便器を掃除しながらふと我に返る。自分の家のトイレだってこんなに細かく掃除することはないのに、俺はなぜこんなことをしているのだろう。

 もちろん職場の清掃をすることにそんなに異議はない。使わせてもらっている場所に対する感謝の念も多少はある。

 ただ、部長の指示が非常に細かいことが難点だった。俺はまず昼休みを返上して、指示された掃除用具を買いに行くところから始まった。

「トイレは特に重要だから。大役だぞ」

 そう言われて渡されたメモには、箇条書きがびっしりと並んでいた。モップだけで3種類もある。トイレという場所に特に強いこだわりがあるのか、他の場所ではされなかったような掃除の工程の指示が、俺にだけは細かく言い渡されていた。

 そのため、慣れるまでは10分では終わらないことが多かった。毎回必ず確認されるので、中途半端に放っていくこともできず、俺は人より遅れて業務の準備にとりかかる毎日を過ごしていた。


 トイレという場所をあてがわれた理由に深いものはないと自分に言い聞かせた。ただ、床に落ちているゴミを拾ってコロコロをかけるだけで済んでいる後輩を見る度に、もしかしたらあの送別会で何かが決定的になったのではないかと思ってしまうのだった。


 普通ならばこういうものはローテーションで行なっていくはずだが、その場所のプロフェッショナルがやった方が効率がいいという部長の一言で、それぞれの担当場所が変えられることは当分なさそうだった。


 10分ちょっとかけてようやく自分の席に戻ったときにはすでに他の社員がその日の業務の準備を終えていたり、談笑していたりするのを見る度に何か一言物申したくなるのだが、ふと目に入るあの棒グラフのせいで言葉がつっかえるのだった。

 俺の業績は相変わらず伸び悩んでいた。正確には少しずつ増えてはいるのだが、周りと比較すると見劣りしてしまう。

 それでも普通ならばここまで気に病むことはなかったはずだ。3年目である俺は業績争いでは一番下っ端のビギナーだった。1、2年目の社員はその表には加えられていない。

 今はトップにいる奴だって、初めのうちは似たようなもんだったはずだ。自分にそう言い聞かせるが、どうにもそう思い込むことができないのは、同期のあの男のせいだった。


 俺は斜め後ろに座る短髪色白メガネを振り返った。入社して間もない頃に一度だけ飲みに誘ってきたアイツだ。同期だがもちろん年下で、名前を高円寺という。

 年が違ってもタメ口でいいぞという俺の申し出を断って、今でも頑なに敬語で通している。いや、奴の場合は誰に対してもそうだった。決して誰にも心を開かない、自分の中だけで完結する、そういうイメージだ。

 部長の歓迎会にすら来なかった奴が自から飲みに誘うなんてよっぽどのことだったのではないかと今になって気づくのだが、今更どうなるものでもない。同期として一人くらい打ち解けようと思って俺を選んだのか、それともあまりに俺が哀れだったから同情したのか。いずれにせよ今の俺には関係のないことだ。


 というのも、俺は心の中で勝手に奴をライバル視していた。奴のグラフは俺のものの真下にあるのだが、それが上司を追い抜かさんばかりに伸びているのだ。それほど接点もないのに何かと奴と比べられるのは、おそらく俺の短いグラフがが奴と上司の長いグラフに挟まれているからだろう。




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