リモコン 7

 目が覚めた。ずっと高くにあったのは見慣れてしまった天井、あの病院のものだった。どうやら手術は無事に成功したようだ。まだ全快ではないが、幾分かましな気分だった。


 あれから一体どれくらい経ったのだろう。起き上がれるだろうかと身体に力を入れようとして、はじめて隣に人がいるのが分かった。

「あら、起きたの?」

 ゆっくりとそう言ったのはぼくの母より少し若いくらいのおばさんだった。だが、何か違和感がある。その正体を探ろうと、その人に向かって手を伸ばした。そしてその瞬間、全てを理解した。


 自分の手の甲には細かい斑点のようなシミが広がり、深々としたシワが刻まれていた。その手を優しく包み込まれる。少し硬くてカサカサした手だった。目の前のこの初老の女は静香だった。


 ガラリと戸が開いて、少し派手な若い女が入ってきた。

「母さん、着替え」

 そう言って女は、ボストンバッグを雑に椅子の上に置いた。

 母さんと呼ばれて、静香がぼくの手をゆっくりと置きながらその女を振り返った。

「ありがとう。さやか、ほらお父さんが目を覚ましたわ」


 さやかと呼ばれたその女は、ぼくを一瞥した。20歳くらいで、漂わせている雰囲気が姉にそっくりだった。さやかはベッドに近寄ることなく、ぼくに背を向ける。

「あたし用事あるから」

 そう言い残して、ヒールの音を響かせながら病室を出ていった。


 静香がため息をつく。そして弱弱しい微笑みをぼくに向けた。

「梨でも剥きますね」

 相変わらず下手くそな笑みだった。


「梨はいいから、鏡を取ってくれ」

 かすれかかった声が出た。しゃがれたそれは、とても自分のものとは思えなかった。

 静香は梨に伸ばしかけた手を引っ込めて、先ほどさやかが持ってきたカバンを漁り始めた。そして四角い和柄の、手のひらより少し大きな鏡を取り出すと、それをぼくの前に持ってきた。


 鏡にはやせ細り、不健康そうな色の肌をした初老の男が映っていた。それは自分の父親というより、亡くなった祖父に似ていた。


 実に25年もの月日をスキップしてしまっていた。無論その間の記憶は無い。 

 ぼくはあの後静香と結婚し、さやかという娘が生まれた。分かったのはそれだけだった。

 同じ病院だったので、運よく手術が終わった直後に飛ばされたのかと思っていたが、それは甘い考えだったようだ。娘がいるということは一度退院して普通の生活に戻れたのだろうが、こうしてまた何らかの理由でぼくはここで入院生活を送っているらしかった。


 以前のような激しい痛みや吐き気はなかったが、時々頭の奥が痛んだ。その痛みは同時に表皮にも及んだ。

 ぼくはそっと後頭部に触れてみた。薄くなった髪が、確かな年月の流れを物語っているようだった。

 髪をかき分けて、じくじくと痛む患部を探った。そこには、記憶にない傷跡があった。


 静香と話す主治医らしい男が下げる名札から、自分が脳外科にかかっていることを知った。ぼくは枕に頭を付けたまま、ただただ天井を眺めていた。二人はどうやら次の手術の日程について話しているようだった。


 ぼくは今度は、目覚めたときからそれを握っていた。他の誰にも見えていないそれをそっと顔の前まで持ち上げて、じっと眺めた。

 他のボタンは綺麗なのに、早送りの部分にだけ手垢がついているように思えた。

 その操作には、もはや何の感情もなかった。ただ、目の前のつまらないドラマを飛ばすだけ。


 ぼくは大きく腕を前に突き出して、天に向かってボタンを押した。




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