リモコン 6
ゆっくりと目蓋を開く。真っ白な天井が見える。どうやら仰向けになっているようだ。感じていた歯の痛みは一瞬にして無くなっていた。
ただ、代わりになんだか全身がダルかった。風邪をひいて何日も布団に横になっていた時のような背中の痛みと、吐き気や頭痛もある。
とにかく状況を理解するために起き上がろうとするぼくの腕を、誰かの手が掴んだ。
「無理しないで、今起こすから」
そう言ってぼくの両肩を優しく押し戻したのは、見たことのない女性だった。彼女はぼくの傍で何かを操作した。すると静かな機械音がして、ゆっくりとぼくの視界が上がって行った。
どうやらここは病院のようだった。ぼくは薄い青色の病院着を着てベッドに横になっていた。
憐むような視線を向けて、女性はぼくの手を握った。目が合うと、微笑まれた。
急に吐き気がこみ上げてきて、ぼくはその手を振り払った。迫り上がってくるのは酸っぱい胃酸ばかりで、鼻の奥がつんとする。状況が全く飲み込めていなかった。
どうしてぼくはこんなところにいるのか、ぼくの身体に一体何が起こっているのか、考えようにもとにかく気持ちが悪かった。
取り乱したぼくの目に、見慣れたリモコンが写った。そうだ、確かまたあのボタンを押して、記憶がないということはおそらくスキップしてしまったのだろう。
今度はあれから何日が経過しているのだろう。ぼくはとにかく情報が欲しくて、あたりを見回した。立ち上がりぼくを落ち着かせようとする女性のとなりにカバンが見える。そこへ手を伸ばし、携帯をひったくった。
「どうしたの、ねぇ」
必死に取り押さえようとする彼女を力一杯押しのけて、画面をつけた。そこに書かれていた数字に愕然として、そのまま携帯を床に落としてしまった。ガシャンと乾いた音がこだまする。
知らぬ間に季節が二つも過ぎていた。ホーム画面には下手くそな笑みを浮かべるこの女と、満面の笑みを浮かべる自分の顔があった。
無気力なままベッドで寝たきりの生活が続いた。毎日痛みも身体のダルさも増していく一方だった。腕に刺した点滴の針のチクリとした痛みが、唯一ぼくを正気に止まらせていてくれた。
半年前に受けた健康診断で大きな病気が見つかり、幸いにも手術をすれば命に別状はないものの、ぼくの体調は日に日に悪化しているようだった。
女は毎日やってきた。名前は静香というらしい。看護婦がそう呼んでいるのを耳にした。
話によれば、ぼくはこいつと4ヶ月ほど前に出会い、そして今は恋人という関係性にあるらしい。しかも、告白したのはぼくからだという。
静香の携帯の中で笑っていた自分の顔が脳に焼きついて離れない。ぼくが好意を寄せていたのはもっと垢抜けていて愛想のいい、行きつけのコンビニでバイトをするあの子のはずだ。こんな地味で、暗くて、笑うと顔が歪むような女ではない。
リモコンはベッドの傍にある机の上に常に置かれていた。と言っても、おそらく僕以外には誰にも見えていないはずだ。
最後にボタンを押した時、さすがにこんな事になるなんて予想もしていなかった。時間がとんでもせいぜい1週間前後だろうとたかを括っていたのだ。この半年間の記憶はもちろん微塵もないし、それにもはや記憶なんてどうでもよくなるほどに、辛い闘病生活を送っていた。
手術の日程が決まり、その日が近づいてきていた。全身麻酔による、開腹手術になるらしかった。
もちろん今までの人生にそんな経験はない。ぼくは痛みや、腹を切り裂かれる瞬間を想像して何度もえずいた。その度に、静香が背中をさすった。
そのぬるい手のひらが気持ち悪くて、胃が空っぽになっても洗面器が離せなかった。
そして、手術の日の朝がやってきた。柔らかな日の差し込む窓際で、久しぶりに起き上がったぼくはリモコンを手にしていた。緊張、恐怖、嫌悪、この数週間で様々な感情と向き合ってきた。ぼくの精神はギリギリだった。ついこの間まで続いていた当たり前の日常が、もう何年も前のことのように思えた。
次にどこまで飛ばされようと。どうなっていようと、もういいではないか。とにかくもう全てを終わらせてしまいたい。
鈍臭そうな足音が近づいてくる。扉が開かれる前に、ぼくは痩せ細った指でリモコンのボタンを押した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます