正義感は犬を殺す 3
作業が終わってトラックに乗り込んでも、高橋さんは一言も喋らなかった。それは何もなければいつものことのようにも思えたが、妙に緊張感がある現場だっただけに、何か異様な事態であるようにも感じられた。
オレも作業に必要なこと以外は何も話しかけることができなかった。新しい壁紙への張り替え作業はそれでも滞りなく終わった。互いに必要な情報は言葉にせずとももう察っせられるようになっていた。それをオレが要所要所で伝えればいいだけだ。むしろ、張り詰めた空気の中で集中して進めたことで、いつもの半分ほどの時間しか掛からなかった。
運転席からちらりと後部座席を盗み見る。高橋さんは座席を少し倒して、目をつむっていた。いつも聞こえてくるような静かな寝息は聞こえてこないので、おそらく寝たふりをしているだけだろう。疲れているのか、それとも無駄な会話を避けているのかは分からなかった。
結局事務所に着いた後、ついてきてくれたお礼対し小さく「おう」と返してくれた以外は、まともに声を聞くこともなかった。
事務所には親方は居なかった。
オレはいつも以上に疲れを感じて、休憩所の椅子に腰を下ろした。休憩所といっても狭い室内なので、簡単な机とパイプ椅子があるだけだ。深いため息をつくと同時に事務所の隣の生活スペースに続く扉が開き、親方の奥さんが入ってきた。
慌てて背筋を伸ばす。奥さんはオレの顔を見るなり中に戻っていき、少ししてお茶の入った湯飲みを持って戻ってきた。
「ありがとうございます」
立ち上る湯気と緑茶の香りで、少し心が落ち着いた。奥さんはにこにことした顔でオレを見つめていた。よほど浮かない顔をしていたのかと思うと、恥ずかしさがこみ上げてきた。
奥さんは親方と2人でこの会社を立ち上げ、それ以来公私共々のパートナーとして主に経理を任されていた。優しそうにいつも微笑みを浮かべているが、その手腕は競合他社も舌を巻くほどのものらしい。こんな小さな会社が不況の中でも押し流されることなく踏ん張っているのは、職人たちの腕のよさもそうだが、正直言ってこの人のおかげによるところが大きいのだと先輩たちが言っていた。
オレには想像もつかないのだが、漢気溢れるあの親方も、奥さんの前では強く出られないでいることはなんとなく感じていた。
「何かあったの?」
奥さんは優しい顔のまま聞いてきた。
「ええと、その……」
オレは今日見た出来事を話すかどうか迷っていた。
改めて考えると、あの現場は明らかに異常だった。あんな汚れは見たことがない。はじめに見た時のイメージが、鮮明に頭に残っている。作り物とは思えないような、物々しい雰囲気を醸し出していた。それに、至る所で感じた言葉にしようもない違和感が、オレに強くそう思わせるのだった。
だが、それと同時に思い出されるのが、高橋さんのあの言葉だった。普段から口数が少ないため、もとから一言一言に重みがあるのだが、さっきのは段違いだった。
あの口調は、明らかに何かを知っている。それならば、忠告には従う方がいいだろう。だが、もし何かの事件があそこで起きたのだとしたら、本当に黙っていていいのだろうか。このまま、見なかったことにしてしまってもいいのだろうか。
言葉に詰まり、そんな風に頭を悩ませていると、奥さんが笑いながらぽんと肩に手を置いた。
「そんな真剣に悩まなくてもいいのよ。何か言いたそうな顔してたから聞いてみただけ」
「は、はぁ」
奥さんはそれ以上何も聞かず、自分の仕事に取り掛かった。オレもお茶を飲み干すと、残りの仕事を終わらせることにした。あとは簡単な事務作業だけだったので、その日はいつもより早く上がることができた。
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