2. 統計の神格化とそれ以外の証拠の否定

A:統計ではないが、カラスが黒いことはDNAからわかる。

B:その研究は信用できない。カラスが白いことはこの統計データからわかる。このデータは白いカラスが1万匹いたことを示している。


 統計の神格化とは、統計に表れる数字を全くの真実だと思い込むことである。この詭弁は、統計以外の証拠を無根拠に排除するという振る舞いも伴う。


 例えば上の例では、Bは白いカラスが多数存在するというデータを持ってきている。だが、我々の通常の感覚からわかるように、このデータは捏造や曲解の可能性が高いものである。


 にもかかわらず、Bは「統計だから」という理由でこのデータを鵜呑みにする。この例はあまりにも馬鹿馬鹿しいが、こうすると見たことある状態になる。


B:このウイルスに感染している人は少ない。東京都の陽性者が90人しかいないのがその証拠だ。


 Bの言うことは一見もっともらしい。だが、東京都で検査を受けた人が100人しかいなかったらどうだろうか。これでは、感染者が100人を超えないのは当たり前である。むしろ、9割もの人が感染している可能性すら疑わせるデータであるが、Bは感染者が少ない証拠にしてしまっている。


 データはしょせん、人が測定し人がまとめるものでしかない。測定は現実のひとつの側面に過ぎず、測定方法がいい加減ならその側面は現実からどんどん乖離していく。故に、統計を扱うときにはそのデータが適切に測定されたものなのかに注意を払う必要がある。が、詭弁屋はそれをしない。


 統計が現実の反映の一側面でしかないように、それ以外のデータ、例えば実験や証言といったものも、やはり現実の反映の一側面である。それは一側面「でしかない」と同時に、統計と「同様に」一側面であるという意味でもある。エビデンスにはそれぞれ長短があり、適切に組み合わせることで現実をより正確に反映することができる。


 統計は世界全体の姿を理解するのに役立つ。しかし、前の節で述べたように、統計がとりにくい分野が存在する。時間的な関係を理解しにくいという欠点もある。実験はこの弱点を解決する代わりに、その実験が設定する状況が現実世界から乖離しやすいという欠点がある。証言は極めて小さく個人的なものにも焦点を当てることができるが、信頼性に保留が付く場合も多い。


 エビデンスはその特徴と個々の内容を検討して初めて、その真贋を判断することができる。統計だから絶対に信頼できるとか、証言だから絶対に信頼できないということはあり得ない。だが、詭弁は単純な世界を好むので、この逆の態度をとるのである。

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