9. 認識の「指摘」と「共有」の混同

A:黒人を端役ばかりに据えることは、黒人を軽視している証拠ではないか。

B:そう思う方こそ黒人を軽視しているからそう見えるのだ。


 ここまでの節で紹介したのは、論理に対する詭弁の中でも「粗雑な要約族」とでもいうべきものであった。つまり、細かい誤魔化しというよりは、大雑把な主旨や論理の無視である。功名であれば気づかれにくいものの、無視が大胆なのでたいていはわかりやすい。


 ここから扱う詭弁は、もう少し手が込んでいる。なので解説を理解するにも、少し時間がかかるかもしれない。


 さて、例に挙げたのは、いわゆる「差別だと思う方が差別だ」論法である。このような主張はどんな差別にも必ず顔を出すから、見たことがある人も多いだろう。


 もちろん、Bの主張は間違っている。Aの言う通り、黒人が端役にしかなれない状況があれば、多かれ少なかれ黒人を軽視していると理解するのは、客観的な推論として妥当である。


 しかし、わかりにくいがここで重要なのは、Aの推論の是非ではない。BがAに対し「Aこそが黒人差別をしているからそうなるのだ」と主張している点である。


 つまり、何らかの差別の主張をする相手に対し、その差別性に気づくということは相手にも差別的な思想があるからだと決めつけているのである。こうして、「気づかなかった」故に差別者じゃない自分と、「気づいた」が故に差別者である相手という対比構造を作り出し、相手を悪魔化する詭弁でもある。


 当然ながら、このBの理解も大きく間違っている。ある認識を「指摘すること」と、その認識を「共有する」ことはイコールではない。例えば、それが差別かどうかを判断するのに、自分が差別主義者である必要は全くない。何がどうなったら差別に当たるのかを理解していれば指摘は十分可能である。


 しかし、「そういう思想が自分にもあるから気づいた」というストーリーは、「思想はないが論理的にこれこれこういう理由で気づいた」というストーリーよりも単純で分かりやすい。何より、「気づかなかった」という、本来その人の無知と無配慮の証拠となるべき状態を、自分に差別性がないことの根拠にしてしまえるので便利である。


 そのため、怠惰な詭弁屋やレイシストは、あらゆる指摘に対してこの詭弁を振りかざすことになり、いわゆる「無敵状態」に陥る。こうなるとあらゆる批判は批判者の差別性の発露と決めつけられ、議論の余地がなくなる。

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