5. 愚者の懐疑:何でもかんでも疑う

A:地球は球体だから、この計算は~

B:そもそも本当に地球は球体なのか? 当たり前のことこそ改めて検討すべきでは?


 小説家の浅野次郎がある寄稿の中で、「賢者の懐疑」という言葉を使ったことがある。氏曰く、歴史を変える原動力となるのがこの「賢者の懐疑」ではないかということだ。


 であれば、その逆も存在するのではないかと思われる。つまり「愚者の懐疑」である。


 愚者の懐疑は、簡単に言えば何でもかんでも疑うという態度である。もちろん、懐疑という態度は議論を先に進めるのに重要な役割を果たす。だが、節操もなく手当たり次第に疑えばいいというものではない。


 そもそも、懐疑は疑うに足る理由があるから疑うのである。疑うに足る理由があるにもかかわらず「常識だから」とか「これまでそうだったから」という理由でそうしない態度を否定し、物事を前に進めるのが懐疑である。


 しかしながら、愚者の、つまりここでは詭弁屋のという意味だが、彼らの懐疑には根拠がない。とりあえず疑っておけば懐疑になると思っている。そのせいで、例に挙げた呆れるような発言に繋がるのである。


 愚者の懐疑は手当たり次第と書いたが、実は詭弁屋の懐疑は手当たり次第というわけではない。必ず偏りがある。その偏りは、人道主義を軽視し差別的な方向に進むという偏りである。前の節で説明した人権の無視もその1種である。


 詭弁屋の懐疑は、必ず人道的で良心的なものを疑う方向に働く。彼らは「なぜ差別してはいけないのか」とは言うが、その逆を言うことはない。そういう意味では手当たり次第ではない。


 これは彼らが「議論」において承認を得ようとすることに関係している。詭弁屋は陳腐な論理しか組み立てられないので、人道主義というみんなが主張するような優等生の議論をしていても注目を集められない。故に、常識を否定する発言をすることで注意を引くのである。


 もっとも、彼らが1つ勘違いしているのは、少なくともこの日本では人権を疑うような主張のほうが「みんなが主張するような議論」であるという点である。彼らは特異な少数派を気取るが、実際にはありがちな多数派に過ぎない。主張が大勢から承認を得ているのが逆にその証拠である。

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