2. 過去の議論の(不正確な)蒸し返し

A:動物は大切にしなければいけない。

B:でもあなたはこの前、ゴキブリは殺していいと言っていましたよね?


 ネットの「議論」ではなぜか、意見が変わることが邪悪であるかのように扱われている。もちろんそんなことはない。人間時間が経てば、当然主張は変わる。


 当然、あまりにも右往左往した意見の変節は怪しまれて当然だし、散々その主張で甚大な影響を及ぼしておきながらしれっと、さも最初から意見が違ったかのように振る舞うことは許されるべきではない。だが、意見が変わることそれ自体は、別に不自然ではない。


 ここで取り上げる詭弁は、そんな意見の変節を「ありえない、信頼できないこと」とする誤った前提をもとに相手を悪魔化する手法である。これには2種類の方法がある。


 1つは、相手が実際に言ったが、随分前の主張であるとか、すでに主張が変わったことを明示しているのに昔の主張を引っ張り出してきて非一貫性を指摘するものである。「非一貫=悪」と刷り込まれている詭弁屋の取り巻きたちは、これだけで十分相手を信頼できないものと思い込む。


 これが面倒なのは、一応は事実に立脚しているという点である。Aが変節したのはとりあえず事実だが別にその変節に問題はない、という弁明は「非一貫=悪」という思い込みに囚われている相手には難しい。こうして応答コストも増大していく。


 もう1つは、そもそもそんなこと言っていないというパターンである。つまり、捏造なり歪曲なりで「かつての意見」をでっち上げ、変節を主張するというパターンである。


 全くの捏造ならまだいい。そんなこと言っていないで終わる話だからである。だが、これが歪曲レベルになると話はややこしくなる。例えば、文脈から切り取ったツイートのスクリーンショットをもって「こんなことを言っていた」と主張するパターンである。


 なまじ昔の話であるせいで、当人すらどのような文脈でそう発言したのは思い出せない可能性は高い。仮に思い出せたとして、実はこういう文脈だと示すために過去のツイートを遡るのはかなり手間がかかり、しかもTwitterの仕様上成功率の低い作業である。そうやってもたもたしている間に、詭弁屋は勝利宣言をするというわけである。


A:動物虐待は許せない。

B:でもあなたは前に犬を殴りましたよね?


 ちなみに、このタイプの詭弁が蒸し返すのは議論だけとは限らない。上の例のように、議論ではなく行為を取り上げるパターンも考えられる。ここで取り上げられる行為は議論のときと同様に、実際にあった行為であることもあればまったくの出鱈目であることもある。


 過ちを犯さない人間はいない。聖書のエピソードではないが、もし些細な過ちでも批判の資格を失うとすれば、誰も石を投げることができなくなるだろう。


 過ちを犯して知らぬ存ぜぬという人間が信用されないのは当然だ。だが本当に些細な過ちとか、すでに償った過ちまで蒸し返し「議論」に組み込もうとする態度は明らかに誠実とは呼べない。ましてや、曲解捏造によってそれを行う行為は言うまでもない。


 このタイプの詭弁に対しては、とにかく昔の話はいまの話と関係ないと指摘するほかないだろう。

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