第4章 相手を悪魔化する

はじめに いわゆる印象操作

 第2章では単語と論理の詭弁を、第3章では数字と専門分野での詭弁を見た。ここまではまだ、詭「弁」と表現できる技術に収まっていた。極めて不正確かつ不誠実だが、一応論理を誤魔化そうという、いわば「論理的に振る舞う」ポーズを取ろうという意思が辛うじてみられる技術だった。


 一方、ここからの詭弁はもう詭「弁」と呼ぶにも怪しいものの集まりである。ただの罵詈雑言やノイズの類であり、本来であればこういう振る舞いが出てきた時点で、我々は肩をすくめて議論の場を立ち去ってよい。村上春樹の小説みたく「やれやれ」とぼやいてもいい。


 しかし、ネットの「議論」ではそうもいかないのが辛いところである。これまで述べてきたように、詭弁屋のその支持者は何らかの言葉のやり取りさえあれば、それを本能的に「議論」とみなしてしまう。そして、「議論」の勝者は雰囲気で決めるのである。


 勝者が雰囲気で決まる以上、実のところ、これまで解説してきたような、相手の主張を捻じ曲げる詭弁は必要ない。ただ大声で相手を罵り、悪者だということにすればいいのである。取り巻きが愚かであればあるほど、シンプルイズベスト、この手が最も効く。


 この章では、そんな相手を「悪魔化」する手法を解説する。一昔前は「印象操作」と呼ばれた種類の振る舞いである。これらはもはや、括弧つきの「議論」ですらなく、それどころか対話や言葉の交流と呼べるレベルですらない。


 だからわざわざ解説されたところで、やられる側からすればどうしようもないというのが正直なところである。詭弁ならまだ、その詭弁性を見抜くことで相手の誤魔化しを止めることができる。「悪魔化」は加害欲を隠さない攻撃であり、議論にふさわしくない振る舞いであることは自明である。


 裏を返せば、このような振る舞いに賛辞を贈る取り巻きたちは、それが加害行為であることを理解したうえで囃し立てている共犯者だと扱われるべきである。詭弁ならまだ「騙されていた」が通用するかもしれないが(にしたって愚かすぎるが)、このような「悪魔化」は騙されるも何もあったものではない。


 我々にできることはせいぜい、このような振る舞いが不誠実であることをしっかり指摘しつつ、相手にしないことくらいだろう。

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