7. 専門家と非専門家を対等にする:誤った両論併記

A:私は獣医ですが、犬は哺乳類です。

B:獣医だからなんだ。素人の意見にも耳を傾けろ。


 先ほど、議論は通常対等に行われるべきと言われたが、例外も存在する。それは、一方がその分野の専門家でもう一方が素人であるという状態のときである。この場合、専門家のほうが優位に立つのは当然のことである。


 詭弁屋は大抵の場合何の専門家でもないので、この事実は受け入れがたい。そのため、専門性を否定し「偽りの平等」を作り出そうと腐心する。


 もちろん、専門家の意見が尊重されるべきであるということは、無根拠に彼らの主張を信じろということではない。だが、彼らの意見は素人のそれよりは重みをつけて評価されるべきものであることは確かだ。


 例に挙げたような事態はいささか極端すぎて、あまり目にする機会はない。現実には、以下のような「誤った両論併記」の形をとることが多い。


A:南京虐殺は実際にあった歴史だ。

B:いや、なかったという主張もある。


A:心理学実験はゲームが人々に悪影響を与える可能性を示唆している。

B:検察官として様々な犯罪者に触れてきましたが、そのような人たちはいません。


 上の例はわかりやすい。南京虐殺という歴史的な出来事は、実際に起こったと歴史学の専門家が結論している。このような出来事がなかったという主張には何ら根拠がない。にもかかわらず、誰かがそう言っているというだけで、あたかもそのような主張が歴史学者の主張と対等に扱われるべきだとBが誤りを述べている。


 下の例はもう少し巧妙である。心理学の知見に検察官が反論している。検察官というといかにも「犯罪の専門家」であるという感じがするが、実際にはこの評価は正確ではない。検察官はあくまで法律と刑事裁判の専門家である。犯罪という現象と犯罪者の内面に関しては「素人よりいくらかまし」程度であろうし、心理学研究の基礎的な訓練も受けていない。


 検察官の例は、実はネットの議論でよく見る事例である。詭弁屋は何の専門家でもないと書いたが、もちろん例外があって、中には何らかの専門家であるにもかかわらず詭弁屋でもあるという救いようのない人間が存在する。このような人間がよく使うのが、この手段である。


 つまり、自分の専門性を無限に拡大することで、まったく専門外の分野であたかも専門家であるかのような顔をするという手法である。これも、素人と専門家を「平等に」並べる誤りである。


 もっとも、この例では標準化された研究の知見と、自分個人の狭い経験を同列視するというタイプの失態も犯している。こう見ると、この詭弁が重要な違いを潰してしまうという点でニュアンス無視族に似た特徴を持つこともわかるだろう。

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