第7話 常夜鍋

「はぁ…」


男は一つ溜息をついた。

酷くくたびれた顔をしている。


「予想はしてたものの、やっぱりキツイな…テキーラが無かったら割に合わないぞ…」


先週アメリカ支社の営業と協力して獲得した大型案件がかなり厄介だったらしい。

納期に余裕はあるものの、その仕様は複雑で、調整しなければならない部署や取引先が多岐に渡った。

複雑な仕様のやり取りを多くの人たちと行なった結果、疲弊した形だ。


「今日は手軽なものを作ろう。確か家にビールとキムチがあったな。それを使って…」


疲れ切った男はあまり面倒な調理をしたくないようだ。

おそらく男が昔からよく作っていた豚キムチ炒めなどを作るつもりなのだろう。


近場のスーパーに寄って、精肉コーナーに向かう。

豚バラの薄切り肉を手に取り、レジに向かう。

普段は必要以上に喋らないいつものレジ打ちの店員が、一パックの肉だけ入ったカゴと男の疲れ切った顔を見て「お疲れ様です」と一言だけ放った。

男も弱い声で「ありがとう」とだけ返し、会計を済ませて家路につく。


家に帰り、男は家のPCとモニターを起動した。

本日の晩酌は適当にオンデマンドTVを見ながらさっさと済ませる算段のようだ。

そして、冷蔵庫からキムチを取り出そうとしたところで玄関のチャイムが鳴った。

ドアを開けると宅配便のようだった。実家から野菜が届けられたらしい。


男の実家はレストランだが、さらにその店を経営している両親の実家はどちらも農家をやっている。

たまにその農家から作物が送られてくるのだが、両親も気を利かしてこの男にも送ってくれるのだ。


「今回は何が入っているんだ…?」


カブや凍み大根の他にほうれん草といった少し旬を外したものも入っている。

そして底に日本酒の大瓶とメモ書きも入っていた。


「…?」


男はいつもは入っていないような物に驚く。

メモ書きにも目を通す。


「毎日お疲れ様。また野菜が届いたので送ります。バランス良い食事を心掛けて健康に。あと、この間、町内会のくじ引きで日本酒2瓶当てました。私達では多いので1瓶一緒に詰めておきます。飲み過ぎに注意しながら、楽しんでください。」


メモにはそう書いてある。

男は両親の気遣いに感謝しつつ、送られてきた野菜と日本酒を見る。

野菜は青々としており、そのままでも旨そうだ。

日本酒は3割5分の磨きの純米大吟醸の一升瓶だ。流石に男にもこれは多い。


「…そうだ」


男は一つ思い立ち、台所の棚からカセットコンロと土鍋を取り出した。


「手軽な料理と言ったら、常夜鍋だよな」


男の晩酌が豚キムチから常夜鍋に変更になった。

台所に食材を並べていく。

・豚の薄切り肉

・ほうれん草

・昆布

・日本酒

・ポン酢

・大根

・ニンニク

・ショウガ

・七味唐辛子


まずはカセットコンロに土鍋をセットして水を土鍋の1/3と昆布を5×10cmほど入れる。

火にはかけずにそのまま放置。


ほうれん草は軽く冷水で洗って根本を切り、大雑把に1/4ほどの長さに切って、豚肉と共に皿に盛る。

薬味として大根、ニンニク、ショウガの皮をむき、おろし金ですりおろし、薬味皿に乗せる。

ポン酢は小さめのお椀に注ぐ。


先程セットしておいた土鍋を弱火にかけ、沸騰する前の、湯気がゆらりと上がったタイミングで昆布を取り出す。

そのまま送ってもらった日本酒を土鍋の半分ほどまで注ぎ、準備完了だ。

と、思ったが、男はふと、先程起動したPCとモニターが気になった。


「今は、雑音でしかないな」


男は電源を落とし、いつもの晩酌の席につく。

これにて真に準備完了だ。


土鍋に注いだ日本酒を猪口にも注ぎクイと味わう。

以前飲んだ生酛きもとの日本酒の、どっしりとした旨味とはまた違う、繊細な味わいだ。

そして鼻腔からは華やかな香りが漂う。

まさに磨きのかかった純米大吟醸に見られる、洗練された風味と言える。


一旦日本酒を注いだために静かになった土鍋から再度ゆらりと湯気が上がり、フツフツと小さく沸騰し始める。

昆布と日本酒、どちらも繊細な香りだ。その両方がふわりと香る。


「頃合いだな」


男はそう思い、薄切りの豚肉を土鍋に浸す。

ゆっくりと豚肉が白くなり、少し淡いピンク色が残っているくらいで取り出す。

完全に火が通ってしまうと固くなるためこれくらいが良い塩梅だ。

まずはポン酢そのままで。


「フー…フー…ジュルハフッムグムグ…あー…」


日本酒と出汁の風味を纏った豚肉の旨味。それをポン酢のアッサリとした風味が包み込み、疲れた体を癒やす。

男は引き続き二枚目の豚を土鍋に浸す。

今度はニンニクとショウガをポン酢に加えて。


「…ムグムグ…あぁ、やはり良いな」


一口目で癒やされた体に活力が戻ってくる。

そこで猪口に再び日本酒を注いで、喉を潤してみる。


「…ふむ…」


どうやらニンニクとショウガが強すぎたようだ。

繊細な日本酒は負けてしまう。


「まあ、だからこそ、これだよな」


男はポン酢に大根おろしを大量に加えた。

引き続き豚肉を土鍋に潜らせ、大根おろしを包むようにポン酢に浸し、食べてみる。

先程よりもアッサリとした味わいだ

そこに日本酒を追ってみる。


「…ふぅ…これよ、これ」


ニンニクとショウガの風味が少し抑えられ、日本酒とよく合う。

男はそろそろ豚のエキスが鍋に滲んできたか、とアクを取り、ほうれん草を浸す。

しんなりとし、火が通った辺りで取り出し、これもポン酢で頂く。

様々なエキスを吸い、染み渡るような風味となっている。


男は軽くふらりとなった自分に気付いた。

土鍋から立ち上る湯気となった日本酒で酔ったのだろう。


「泥酔したらせっかくの楽しみも何もないな」


男は日本酒のペースを少し落とし、ゆっくりと食べ進めることにした。


夜はまだ長いようだ。

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