第9話 クジラの刺し身と竜田揚げ
「んーむ…」
男は悩んでいる。
毎週末の楽しみとなっている晩酌の自炊だが、この日はちょうど、酒も材料も切らしていたのだ。
「如何様にもできるとなると逆に定まらないな…。買い物しながら決めるか。」
そう言って、男はいつものスーパーに入る。
このスーパー、先日の豚バラ2kgや山菜フェアのように目を引くような品物が置いていたりする。
男はそんなものが無いかと期待しているのだ。
「青果コーナーは、普段と変わりないか…。精肉は…変わり映えしないなぁ。魚介で何か…お?」
男が見つけたのは今まで外食で数回しか食べたことがなく、ましてやスーパーに並んでいるのは見たことがない食材だった。
「クジラ…赤身肉か…。パックに入っているのなんて始めて見た…」
もちろん、この男も調理したことがない食材だ。
一昔前は割とよく出回っていたものらしいが、この男の世代では、かなり珍しいものになっている。
だが、男はクジラ肉から目が話せない。
「…何事もチャレンジだ。幸い王道の食べ方なら把握してるし、いっちょやってみよう」
本日の晩酌が決まった。
男はクジラ肉を200gほどカゴに入れた。
続いて青果コーナーに戻り、ショウガ、ニンニク、リンゴもカゴに入れていく。
「さて、酒は何を合わせよう?」
先々週は日本酒、先週はビール、先月もそれらを飲んだ気がする。同じ選択は些か芸が無い。
しかし、それ以外に合いそうな酒を知らない。
「まあ、変なこだわりよりも旨く食べて飲むことのほうが大事か」
男は思い直し、先週と同じビールをカゴに入れて会計に行くと、いつもの女性がレジ打ちをしていた。
カゴの中を見て、一瞬、えっ?と彼女は言う。彼女もクジラ肉を把握していなかったようだ。
会計後、彼女が「店長また変わったものを仕入れてたのね…」と小さく溜息をついたのを聞いた。
「あの品揃えは店長によるものか。店員が把握していないということは店長がバレないように仕入れて品出ししていたのか?そう考えると面白いな」
男はそんなことを考えながら帰路についた。
帰宅し、レジ袋からクジラ肉を取り出して眺める。
まだドリップが少ない。解凍から時間が経っていない証だ。
男は、果たして上手くいくか、と逡巡しながらも、
「よし、作るか。刺し身と竜田揚げ」
男は小さく頷いて、台所に食材を並べ始めた。
・クジラ肉(赤身)
・ショウガ
・ニンニク
・リンゴ
・醤油
・みりん
・日本酒
・片栗粉
刺し身についてはこの男は特に変わったことはしない。ただ切って皿に盛るだけだ。
竜田揚げも少し時間はかかるが難しくはない。
まず、漬けダレを用意し、クジラ肉を漬ける。
漬けてからある程度時間が経ったら一枚ずつ片栗粉をまぶして揚げる。これだけだ。
まずは、クジラ肉を薄く切る。
この男は刺し身を切る前に毎回包丁を研ぐ。
料理は何度もやっているが、男は包丁の扱いが上手くない。そのため、切れ味を良くした包丁で勢いで切ってしまうというのがこの男のやり方だ。
包丁を研ぎ、砥石を片付ける。
クジラ肉を1cmよりも幾分か薄く切っていく。
そうしてクジラ肉を半分ほどスライスしたところで、皿に取っておく。
次に竜田揚げの漬けダレ作り。
おろし金を取り出し、ショウガを3かけ、ニンニクを1かけ、リンゴを1/6ほどすり下ろしていく。
すり下ろしたショウガの1かけ分は刺し身のショウガ醤油にするので別で取っておく。
すり下ろした物に、大さじで醤油を2杯、日本酒を1杯、みりんを1杯入れ混ぜてタレを作る。
先程スライスしたクジラ肉をタレの中に入れて馴染ませ、ラップをかけて冷蔵庫で寝かせる。
クジラ肉は初調理のため分からないが、1時間も寝かせれば十分だろう。
その間、男はシャワーと洗濯物を済ませて待った。
もうすぐ1時間経つかという頃合いで男は台所に戻り、まだスライスしていない分のクジラ肉を先ほどと同じように切って皿に盛った。
醤油とすり下ろしたショウガも豆皿に盛り、これで刺し身の準備は完了、後は竜田揚げだ。
フライパンに油を注ぎ、180度まで熱する。
皿を2枚用意し、片方に片栗粉を広げ、もう片方にキッチンペーパーを広げる。
タレに漬け込んでおいたクジラ肉を冷蔵庫から取り出し、片栗粉をまとわせて、一枚ずつ揚げていく。
衣が揚がったらすぐにキッチンペーパーに移し、油を落とす。
最後のクジラ肉を揚げたところで皿に盛り付け、完成だ。
まずは先週と同じようにビールから。
「んぐ…んぐ…っくふぅー。旨い。やっぱりこの手の酒は飽きないな。…さて、早速クジラを…と」
男はまず刺し身から手を付けた。
直前に研いだ包丁で切ったからだろうか、断面がキレイである。
男はまず醤油だけでこの肉を頂いた。
「んむ…!なるほど、こうなるか」
男がまず感じたのは水分の多さ。
噛んだ瞬間に肉の繊維からドバっと水分が出る。
脂身が多い食材のジューシー感とは違った感覚だ。
この水分、若干香りのクセが強い。苦手な人は苦手だろう。
しかし、その後も噛み締めていくと肉の旨味がゆっくりと出てくる。
そのクセと旨味を感じながら男は、
「これは焼酎が良かったかもなぁ」
と考える。
ビールでも十分合うが、焼酎ならば十二分だろう。
しかし、このビールでも合格点だし、まあ良いだろうと思い直す。
軽くビールを飲み、竜田揚げにも手を伸ばす。
「サクッむぐむぐ…んむ!…旨い」
刺し身の時の水分がジューシー感に変わっている。
クセはショウガとニンニクにより旨さとなった。
そこにクジラ本来の旨さと醤油とみりんの定番の味付けが加わり、油分をまとって口腔と鼻腔全体に広がる。
クセがある分、旨さの余韻も長い。
十分余韻を堪能した後、ビールを一口流し込む。
サラッと旨さが流れていき、すぐに次の一口へと箸を伸ばしたくなる。
次は刺し身をショウガ醤油で頂く。
「んぐ…んぐ…お、こんなに変わるか」
ショウガの香りでクセが弱まっている。
そのため後から続く旨みがすんなりと広がっていく感覚だ。
男はビールを更に一口飲む。
「んーやっぱりビールじゃ100店満点じゃないな。苦手だが、焼酎の方が旨く飲めたかもしれん」
そうは思いつつも男の顔はクジラ肉の旨さでニヤけていた。
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