第53話 アサリの酒蒸し
「…そこまで貯まってないな」
4月下旬の水曜日の昼休み、男はスマートフォンを睨みながら何か考えている。
画面にはショッピングサイトらしきものが映し出されている。
難しい顔をしている男を見て課長が声を掛ける。
「そんな顔してどうしたの?」
「カードのポイントが有効期限近くて。まぁ、あまり溜まってないのですが何か貰おうかと」
どうやらクレジットカードのポイント交換のサイトを見ていたようだ。
「実用的なものにしようと思ってるんですが…」
中々決められないらしい。
「そういうのは実用性無視した方が良いよ。欲しいカテゴリーの商品があっても使い勝手とかスペックが自分に合ってるとは限らないから」
課長がアドバイスする。
男が見ているサイトでは大体カテゴリー毎に商品が1つか2つ、多くても3つだ。例えば新しい包丁を、と思っても少ない選択肢では使い熟せるものがあるかは分からない。
もっとも、使い熟せる自信があるなら話は別だ。
しかし、
「なるほど…そうですね。なら食べ物とにしておきます」
男にはそんな自信は無かったようだ。
男がグルメのカテゴリーを開き、一つの商品に目を付けた。
「お…これは…」
その様子を見て課長も、
「何か良いのがあった?」
と聞いてくる。
「はい、旬の美味しそうなものが」
と男は笑みを浮かべながら、その商品を注文した。
翌々日の金曜日の20時頃、男は家路を急いでいた。
「今日届くっていうのに…あのルーマニア人電話長いな」
支社の営業に電話で長時間捕まっていたようだ。
どうやら今日が注文した商品が届く日らしく、男はズンズンと速歩きで進む。
幸い、配送を確認すると自宅から遠いところに拠点がある業者が届けるらしい。その業者であれば常時は20時半頃に届けられる。
いつも通りであればまだ間に合う。
「…ちょっと買い物する余裕はあるか。よし、酒を買おう」
男は酒屋を通り過ぎてスーパーに向かおうとする。
そこで酒屋の女店主が声を掛けてくる。
「あ、ちょっと」
男も足を止める。
「あ、え、はい」
「やっぱりアンタだったね。この間の洒落た告白依頼、料理教室以外会ってないじゃないか」
女店主が少し呆れた顔をしている。
洒落た、の言い方に含みがある。ホワイトデーのお返しの時を指しているのだろう。確かに洒落たというには大分小っ恥ずかしいやり取りだった。
「あぁ…いやぁ、あの後誘うのが何だか恥ずかしくて…」
男はそわそわしながらも正直に話した。
「全く…身の丈に合わないことするからだね。で、急ぎなのかい?」
女店主も男の様子に気付いたようだ。
「ええ…荷物が届くので…」
「…食べ物?」
「はい。アサリです」
「…今日の晩酌はそれを使って?」
「ええ」
「…よし、ならアタシもご相伴に与ろうか。女子を待たせた罰だ」
「分かりました。喜んでその罰お受けしましょう」
お互いにそう言いつつも少し嬉しそうだ。
久しぶりに一緒に食べられるからだろう。
「よし、なら酒はこっちで用意しよう。軽く見繕うから少し待ってな」
と、女店主は店の中に入っていく。
数分後、緑の瓶を2〜3本袋に入れて出てきた。
「さ、善は急げだ。行くよ」
と男と共に道を行く。
男の自宅にに入ると、ちょうど宅配が来た。
「お、タイミング良いねぇ」
冷蔵庫に酒を入れながら、女店主が言う。
荷物を受け取った男は台所にそれを持ってくる。
箱を開けると大量の冷凍アサリが入った袋が出てきた。
「…アンタ、これ一体何だい?」
あまりの量に女店主が呆れたように言う。
「冷凍アサリ2kgですね」
男が淡々と言う。
「2kgって…まあ、冷凍だから問題ないね。アンタもそれを見越してこれを買ったんだろうし」
ふぅ、と軽く溜息をつきつつ女店主は言う。
「全く以て。今日は酒蒸しにするつもりなんですぐに出来上がりますよ。少し待っててください」
と、男は女店主に言う。
はーい、と女店主は答える。
男は台所に食材を並べて始める。
【アサリの酒蒸し】
・殻付きアサリ ※今回は冷凍
・調理酒
・サラダ油
・ニンニク
・鷹の爪
・青ネギ
酒蒸しというのは、その名の通り、食材を日本酒で蒸煮にした料理のことだ。アサリの定番の調理方法だ。今回は冷凍のアサリを使う。
基本は酒で蒸煮にするだけだが、ニンニクや鷹の爪、ネギやあさつきを入れるとなお旨い。
まず、食材を切るところから。
ニンニクは1かけを粗いみじん切りに、鷹の爪1本と青ネギ2本は小口切りにする。鷹の爪は辛くなりすぎないように中の種を取り除く。
続いてフライパンでの作業。
フライパンに油を敷いてニンニクと鷹の爪を極弱火で温める。
香りが立ってきたら調理酒をお玉で1杯注ぎ、アサリをフライパンの底いっぱいに並べる。そして、強火にして蓋をする。
小さくピシッという音が何度かしたら、アサリの口が開いたということだ。そのタイミングで小口に切ったネギを散らして、更に30秒間蒸らす。
フライパンの底の汁ごと深皿に移して、完成だ。
酒蒸しを食卓に持ってくると、既に箸や、グラスが準備してあった。
「お、できたね。なら酒を持って来るかい」
と、女店主は冷蔵庫から冷やしておいた酒を持って来る。
「箸とかグラスとか場所分かってたんですか?そう言えば冷蔵庫の中身の位置も把握しているみたいですし…」
男は言う。
酒を持ってきた女店主は、
「前にアンタを看病した時に見たからね。そんなことより、飲むよ」
と事も無げに言い、グラスに酒を注ぐ。
注いだ途端にシュワァと泡が立つ。
「発泡性の日本酒ですか。こういうのも置いてるんですね」
男が言う。
どちらかと言えば凝った趣味の酒ばかり置いている酒屋というイメージだったが、所謂ミーハーと言われそうな酒も置いていることに驚いたのだ。
「最近、若い女性客がちょこちょこ来るようになってね。こういう酒無いかーって聞いてくるから置くことにしたんだよ。ま、たまにはこういうのも良いだろ」
女店主が言う。
今ではコンビニでも見かけるようになった発泡性の日本酒。女店主が持ってきたのはそのパイオニアとも言える銘柄だ。
注ぎ終わった女店主は男にグラスを渡す。
「では、今週一週間もお疲れ様でした」
グラスを受け取った男が言う。
「うん、お疲れ様」
女店主も軽く返す。
グラスの底からキラキラと昇る泡を見てから、酒を一口飲む。
「んく…ふぅ…久しぶりに飲みましたが、良い酒ですね」
男が言う。
日本酒というには度数がかなり低く、ビールと同程度だ。ほんのりと甘みがあり、炭酸もあるので口当たりが軽い。
日本酒の風味もしっかりと存在するが、スパークリングワインを彷彿とさせる酒である。
二人は次いで、深皿からアサリを取って一口食べる。
「じゅる…むぐむぐ…んぐん…あぁ、これだよねぇ」
今度は女店主が言う。
滋味深いとはこのことを言うのだろう。
貝類特有の酸味を伴ったような旨味が広がる。
そこにニンニクや鷹の爪、小口ネギの香りも加わる。
二人は同時に酒を追いかける。
「んく…んく…ふへぇ…」
ニンニクや鷹の爪のパンチに炭酸がよく合う。
アサリ自体の旨みにも日本酒の風味が上手く噛み合っている。
若干酒の方が軽過ぎる感も否めないが、よく合った組み合わせだ。
「合うね。うん、合う」
女店主はしみじみと言う。
食後、女店主は男に対して言う。
「はぁ、美味しかったよ、ありがとうね。で、次はいつ、何に、誘ってくれるんだい?」
男はウッ、と言葉に詰まりつつ、
「何にも決めてません…まあ、何かあったら誘いますよ」
「正直でよろしい。でも今回みたいにあまり待たせるんじゃないよ?」
釘を刺してくる。
男は苦笑いをしながら、
「善処します」
と答えた。
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