幕間 酒屋で角打ち

「…親父!重いものはあたしが運ぶから!」


第3金曜日の夕方。この酒屋は毎月この日を角打ちの日としている。10月のこの日もその例に漏れず酒屋の店主と先代店主は角打ちの準備をしていた。


ここのところ少し流行りだしている"角打ち"。その正しい意味と言っても、何のことはなく、単に"酒屋で飲む"というだけだ。

その起源は諸説あるが、せっかちな客のわがままから始まったらしい。昔の酒の販売といったら升を使った量り売りだ。せっかちな客はその酒が徳利に注がれる前に升の"角"に口をつけて飲みだしたとか、家に帰るまで待てずに酒屋の一"角"を仕切ってもらって飲みだしたとか言われている。


この日もせっかちな飲兵衛達がこの酒屋に向かってきていることだろう。

店主と先代店主は彼らを迎えるためにせっせと準備しているのだ。


この酒屋の角打ちの準備は重労働だ。

冷蔵庫のもの以外の酒は倉庫に運び、陳列台を端に寄せてスペースを作る。そしてビールケースを重ねてロープで縛って固定し、天板を貼り付けた簡易テーブルを複数作る。それらを店内や店の奥側に並べてカウンターとして、準備完了だ。よし、と店主は気合を入れる。


まだ開店まで数分あるが、その前に準備が終えられて良かったと言ったところだ。

と、早速一人目がやってきたようだ。


「お、いらっしゃい!この日に来るのは珍しいね!まだ開店まで少しあるけど、良いよ、入りな」

店主が入ってきた客に呼びかける。

入店したのは、いつもは金曜日に自炊で宅飲みをする三十路手前の男だ。普段角打ちには来ない客に店主もウキウキしている。

その男が目をパチクリさせながら店の入り口に立ち尽くしている。


「…あ、今日は角打ちの日ですか。勘違いしてました」

どうやら男は通常営業の日と間違えたらしい。


「なんだい、買いに来ただけかい。まぁでもまだ他のお客さん来る前だから売ってあげるよ。ご覧の通り片付けちまって物色はできないけどね」

店主は興醒めした様子で言った。


「いえ、せっかくこの日に来たんですし、たまには頂いていきますよ」

男のその言葉に再度店主も嬉しくなる。

男はそのままカウンターの一角に陣取る。


「お酒やつまみはいつもお店に置いてあるものが頼める形ですか?」

男が聞く。


「そうだね。けどレア物だけは勘弁してくれよ?あと冷蔵庫の酒も大丈夫だから」


「つまみは店のものを炙ったりもできますから気軽に言ってください。あと、角打ちの日だけは卵焼きと季節の煮物も用意しています」

店主が答えて、先代店主が被せる。


「なるほど、では、卵焼き頂けますか?あと…このビールをお願いします」

男はアテを注文しつつ、冷蔵庫から1本のビールの小瓶を持ってきた。

ピルスナーのクラフトビールだ。


「はーい。母ちゃん、卵焼き一つ!」

店主が奥に向かって呼びかける。どうやら店主の母親が奥で調理しているらしい。


「会計は先にお願いね。キャッシュオンデリバリーってやつさ」

はいはい、と男は答えつつ、ビールと卵焼きの代金を支払う。

会計を済ませると、店主はビールを開けてグラスと共に男に渡した。同時に、奥から卵焼きが運ばれてきた。

質素な皿の上に巻き卵と既に醤油のかかった大根おろしが乗っている。


「では、頂きます。あむ…むぐ…んぐんっ。出汁巻き卵ですか、美味しいですね。奥さんは関西の出身で?」

男が聞く。


「私の方が京都出身なんですよ。妻は私好みの味に合わせてくれたんです」

先代店主が答えた。


「その割には標準語が板についてますね」


「こちらに来て長いですからね。今じゃもう地元の言葉も話せないですよ。…ささっ、ビールも冷たい内に頂いちゃってください」

先代店主に勧められるまま、男はビールを飲む。


「あぁ、では頂きます。んぐ…んぐ…くはぁっ!」

クラフトビールらしく香りが強い。柑橘系の軽やかな香りだ。

ピルスナーなので重くなく、苦味とコクも程よい。

やや柑橘系の香りがミスマッチかと思えるが、全体的に軽い味わいなので出汁巻き卵にも合う。

男は更に出汁巻き卵に箸を伸ばす。今度は大根おろしをたっぷりと乗せて。


「はぐっ…むぐ…んぐんっ」

卵からじゅわっと溢れ出る出汁と油。卵自体の旨みと醤油と相まって中々に食い気を唆る。

それが過剰にならないのは大根おろしのおかげだろう。大根おろしはサッパリとした水気を湛え、出汁と油と醤油の風味を上手に弱めて次の一口への準備をしてくれる。

更にビールを一口追いかけているところでドアベルがカランと鳴った。


「いらっしゃいませ!」

酒屋の店主が快く迎え入れる。

現れたのはすぐそこのスーパーでいつものレジ打ちをしている女性だ。


「こんにちは。…早めに来たつもりでも一番乗りは無理でしたね…あら?」

男とこの女性は顔見知りだ。


「いやぁ、いつもだったら一番乗りの時間ですよ。今日は偶然。この兄さんは普段宅飲みをする方ですからね」

と、店主。


「どうも」

ここで男も挨拶する。


「知ってますよ。私そこのスーパーでバイトしてますから。よく金曜日に買い出しに来られますよ。今日はなんでまた?」

とレジ打ちの女性。そのまま男の隣に立つ。


「普通の日と間違えて入ってきたみたいですよ」

と店主が言い、その場に軽く笑いが起こる。


「あはは。あ、そうだ注文。…何が頼めるんですか?」

どうやら女性はこの酒屋に入ってくるのも初めてらしい。


「初めての方には卵焼きか季節の煮物をお勧めしていますよ。お酒は何か好きなものとかあります?」

店主が聞く。


「えと…好きなのはワインなんですけど、卵焼きとかには合わないですよね…」


「いや…辛口の白なら卵焼きと合わせられるのがあるね」


「え?ホントですか?ならそれと卵焼きをお願いします」

店主と客の女性が会話で注文を決めていく。

注文を聞いた店主は奥へ酒を取りに行った。

男はそのタイミングで疑問に思っていたことを聞いてみた。


「それにしても今日はスーパーでバイトじゃないんですか?あ、先週も別の方でしたけど」


「その子とシフト代わってあげたんです。…バイト中ここで皆が楽しそうに飲んでいるのを見てきたので、どうせなら今日はここで飲みたいと思って」

女性が答える。


「なるほど。まだ今日は早い時間ですけど、いつも賑わってますからね」

男が相槌を打つ。


と、奥から女性たちの笑い声が聞こえてくる。店主とその母親の声だ。

この様子だと先日喧嘩した件は落ち着いたようだ。

そして店主がワインや卵焼きを持ってきて女性の前に置き、ワインを注ぐ。客の女性はわぁっと言い、ワインを飲み、卵焼きを頬張る。


「その様子だとお見合いの件は片付いたみたいですね」

と男が店主に言う。


「片付くも何も…。大体何の相談も無しに急に来た話なんて白紙よ。まぁもう気にしてないですけど」

と店主が呆れた声で言う。

と、その横で、


「わぁ、ホントに卵焼きとワインって合うんですね!」

と女性が驚く。


「って言うよりも相性の良いワインを見繕ったって感じですね。卵焼きも合わせやすいように味付けしてるし。…中々この卵焼きが難しいんですよ」

店主が付け足す。


「こいつには100年経っても無理ですよ」

先代が口を挟む。


「あたしだって作れるように練習してるから!」

と店主。その場に笑いが起こる。


「ふ…まぁお前なら料理できる旦那を連れてきたほうが早いだろうよ。そうだ。どうです、お客さん、こいつの面倒見てやってくれませんか?」

と先代が男に聞く。


「え…?」

店主とスーパーのバイトの二人の女性が同時に黙り込む。

場の空気が一瞬冷たくなる。


「んぐ…まぁ、ご縁がありましたら、ね」

ビールを飲んでいた男はそんな空気に気が付かず、先代の発言を軽く流した。

おかげで冷たい空気が和らぐ。


「そりゃそうだ。親父も何言ってるんだか。はは!」

と店主も笑いながら言う。女性も笑ってその場を流した。


そうやって4人で歓談しつつ、新しい客を迎え入れながら過ごした。

そうして1時間ほど経った頃、


「…こんな時間ですか。ではそろそろお暇します」

男が席を立つ。


「なんだよ、兄ちゃん。もう帰っちゃうの?」

飲みながら仲良くなった高齢の男性に呼び止められる。


「長っ尻は潔くないですからね」

と男は答える。


「それを言うなら私もそろそろ行きましょうか」

スーパーのバイトの女性も続く。


「ほぉ、最近は粋を解する若モンが増えたんだな」

別の男性が言う。


二人は店主と先代にニコッと笑いかけながら店を出て、別々の方向に帰っていった。


男が帰った後、先代店主は、

「あの人、さっきは嫌だとは言わなかったな…娘も嫌な顔はしてないし…」

と考えていた。

どうやらもう一人の女性の表情も凍ったのを先代は見逃していたようだ。

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