第5話 豚の角煮

「今日は頑張ったな…」


男は疲れた顔でそう言った。

時刻は22時を過ぎている。

男が働いているのは、心的疲労は多いものの、普段残業が少ない部署である。

加えて家も職場から近く、大体いつも19時程には帰宅しているため、この時間までの残業は珍しい。


「とにかく早く帰って晩酌だ」


こんな遅い時間でも男は週末の楽しみを逃したくないらしい。


「とにかく腹が減った。ガッツリしたものが食べたいなぁ」


そう思いつつ、いつものスーパーに寄る。

このスーパーは23時に閉店のため、この時間になるとほとんど食材が売り切れとなる。

男は自分の欲のまま、精肉コーナーに向かったが案の定ほとんどが品切れだ。


「何か残っていないか…?」


男の頭の中は肉を食べたいという思いで満たされている。最早魚や野菜は目に入らない。

品切れとは分かっていても何か肉はないかと探している。


「お!これは…いや、しかしこの時間からコイツの調理は…」


そう言いつつ男が手に取ったのは豚バラのブロック肉だ。

2kg近くある。一般家庭向けにしては持て余すようなサイズだ。売れ残っていた理由もこのサイズによるものだろう。

しかし、男はこういった食材を旨く食べる方法を知っている。だが、


「でもこのサイズはなぁ。あとは…調理時間が…」


やはり一人暮らしの男には2kgの肉は多い。おそらく土日食べ続ける形になるだろう。

加えて、既に22時を過ぎている中、この男の思い描く料理をすると確実に晩酌前に日付が変わる。


「まあ、でも良いか。作るぞ、角煮!」


男のこの後の晩酌と土日の献立が決まった瞬間だ。

そうと決まれば他の食材も買い足す必要がある。

まずは角煮の付け合せに大根と卵。

次に調味料類や香味野菜。醤油と砂糖は家にあるので足りないものをカゴに入れていく。

そして、酒。角煮に合わせて男は紹興酒しょうこうしゅもカゴに入れる。これは調味料としても使う。

レジに向かう途中、香辛料のコーナーで、八角を見つけたのでそれもカゴに入れる。


いつものレジ打ちの人が今日ばかりはギョッとして驚いている。どうやら売れるわけがないと思っていたようだ。

男は気にせず会計を済ませ、家路につく。


家に着き、男は早速台所…ではなく押入れに向かった。引っ張り出してきたのは寸胴鍋。

昨年の忘年会で行われたくじ引きで、男は5等の景品の寸胴鍋を貰っていた。

正直、社内の誰もが持て余す物なので、ネタ枠の景品とされていた。

実際この男も使いどころが無いので押入れに入れっぱなしにしていたが、今回ばかりは役に立ちそうである。

軽く寸胴鍋を洗ってコンロに置く。


ちなみに男は圧力鍋を持っていない。

昔は持っていたが、時短の概念を持たない男は使い途を理解できずに知り合いに譲ってしまった。

今、男はそのことを軽く後悔している。

しかし過去を悔やんでも仕方がない。


「よっしゃ始めるか」


男の調理が始まった。時間は既に22時半を回っている。


まず、材料をいつも通りに並べる。

・豚バラブロック

・大根

・卵

・鶏ガラスープ(顆粒)

・醤油

・砂糖

・日本酒

紹興酒しょうこうしゅ

・黒酢

・八角

・長ネギ

・生姜


手順としてはいたってシンプルだ。

まず豚バラは沢山のお湯と日本酒で煮て、臭みとアクを取る。

その後、タレで煮込んで味を染み込ませれば良い。

大根に関しても鶏ガラスープで煮て味を染み込ませた後、豚と同じ鍋に入れてタレを絡ませるだけだ。

卵もゆで卵にして同じ鍋に入れるだけ。

問題はそれら工程の一つ一つがかなり時間を要することにある。

とはいえ男は既に角煮の口になっているので始める。


まず、豚バラをあまり小さくしないようにしつつ、鍋に入るサイズに切っていく。

今回は寸胴鍋なので半分に切れば事足りた。

その豚バラとひたひたになるくらいの水、そして日本酒を入れる。日本酒の量は適当である。おそらくお玉で1〜2杯ほど入れただろう。

さらに臭み取りのために長ネギ2本分の青い部分と生姜を2かけ程スライスして同じく鍋に入れる。

火にかけて、沸騰してから弱火に変える。そこから1時間弱煮込む。


豚バラを1時間煮込んでいる間に大根の準備だ。

今回大根は1本買ってきたが、豚バラに対して量が少なかったかもしれない。2本でも良いくらいだ。

ともあれその大根の皮をむき、厚めの半月切り、もしくは銀杏切りにしていく。

豚バラとは別の鍋に入れ、水が大根を覆うくらいに注ぐ。顆粒の鶏ガラスープも大さじ1〜2ほど入れ、弱火で煮込んでいく。どうせ味が十分染みるほどに煮込むからこの時点での煮込み時間は適当で良い。


大根の準備が済んだらゆで卵の準備だ。

後々卵の殻を上手くむくためにここで殻に小さく穴を開け、豚バラの鍋に卵を入れる。

この日の男の気分は半熟なので7分ほどしたら卵だけ取り出して冷水にさらしておく。


豚バラを1時間火にかけたら、肉を取り出して、余分な油とアクが出た茹で汁を捨てる。

香味野菜は軽く流水で洗い、細かく刻んだあとに袋に詰めて冷凍した。おそらく後日チャーハンか何かの具材にするつもりだろう。

なお、この時点時刻で23時半を過ぎた。


次に肉を切るのだが、取り出したばかりの肉は熱いので先に茹で汁を捨てた寸胴鍋を軽く洗い、次に備える。

取り出したバラ肉は好きな大きさに切る。男はガッツリ食べたいという欲のまま、大きめに切った。


先程洗った寸胴鍋に水を1.5リットル、紹興酒しょうこうしゅをお玉で1.5杯、醤油を2杯、黒酢を0.5杯、それに砂糖を1杯強加える。

一煮立ちさせて砂糖を溶かし、タレを作る。


できたタレに八角を二かけと切った豚バラを投入し、火にかける。40〜50分ほど火にかければ十分だろう。

ここで男はハッとし、全ての豚バラをタレに入れてしまったことを後悔する。同じ豚でも、ここから塩豚にするとかシチューにするとか色々使いようがあったのになぜ全部入れた、と。

ともあれ後の祭りだ。諦めて男は角煮ができるのを待った。


豚バラを再度火にかけた時点で大根の方の火を消して、ゆっくりと粗熱を取る。

合わせて冷水にさらしておいた卵の殻もむく。

豚バラが煮えるまでだいぶ暇になるので男はこの大根と卵を少し横に取り、先に晩酌を始めてしまった。


大根には鶏ガラのスープがよく染みている。

卵にも塩を振り、味を整える。

男は紹興酒しょうこうしゅ猪口ちょこに注ぎ、飲み始めた。


甘いような何とも言えない香りが鼻腔を抜ける。これから食べる料理を思うとワクワクするような香りだ。

そして卵を一つ、しかし紹興酒しょうこうしゅの香りが強い上に卵もただの塩味だ。当然、合わない。

大根はどうかと頬張る。だがこちらも鶏ガラスープが染みただけなので、合わない。

男は諦めて洗い物や他の家事をすることにした。


50分後、豚バラにタレの味が染み込んだ。

既に日付は変わっているが、最後の工程が残っている。

男は小鍋に豚バラを何個かとタレを幾分か、そしてスープが染み込んだ大根何切れかに卵を一つ入れて、全体にタレが絡むように煮込んだ。

この煮込みは大根と卵にタレを絡めて全体が温かくなれば十分だ。

そうして温まった小鍋の中身を大きめのお椀に移して、完成だ。



豚の脂、醤油、紹興酒しょうこうしゅそして八角の匂いが合わさり、食欲をそそる香りが立ち上る。

香りだけで酒が進む。男は早速、紹興酒しょうこうしゅを注いで飲み始めた。

先程の角煮の香りと紹興酒しょうこうしゅの香りが鼻腔で混じり合い、長い余韻と共に男の幸福感を満たしていく。


酒の余韻の後、男は角煮の豚にかぶりついた。

口の中に入れてまず感じるのはタレの甘みと旨み。

その豚肉を噛むと豚バラの肉汁がジュワッと溢れ出してくる。事前にアクや臭みを取っているので純粋かつ濃厚な旨味が強い肉汁だ。

それらを飲み込んだ後に八角のスッキリとしつつ甘い香りが通り抜けていく。

男はすかさず紹興酒しょうこうしゅを飲んだ。

まだ口にはタレと豚肉の味や香りが残っている。

そこに酒の香りを乗せていく感じだ。当然、笑みが溢れる風味となる。


続いて大根。先程は風味が弱く、紹興酒しょうこうしゅに合わなかったが、タレが絡むと旨い。

甘旨いタレの味の後に鶏ガラと大根のエキスが滲み出てきて病みつきになる。

そこに酒を流しこめば、鼻腔への刺激も加わり完璧である。


最後に卵。大根と同じくそのままでは紹興酒しょうこうしゅには合いようもなかったが、タレの染みた白身と半熟の黄身が混ざり合い、より濃厚な味わいとなっている。

甘辛旨い味付けの濃厚な料理には紹興酒しょうこうしゅは合うものだ。やはり、酒が進む。


これは満足できるものになった、と男は満足しつつも、角煮を頬張り、酒を飲み進める。


…晩酌が終わったのは深夜の1時過ぎだ。

男は明日のために豚バラとタレがいっぱいの寸胴鍋に殻をむいた半熟卵を入れていく。

こうすることで、数時間後にはよりタレの染みた卵が堪能できるだろう。


ただ、男は、明日も明後日もこれを食べるのか、とまだまだ底が見えない寸胴鍋を覗き込み、溜息をついた。

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