幕間 年越し蕎麦

「あー、良い湯だ…」


大晦日の夕方。

つい先程まで大掃除をしていた男は、その疲れと汚れを洗い流すために近場の銭湯に来ている。

せっかく掃除した風呂場なのだ。今日くらいは使わずにいたい、という気持ちと、年の瀬は広い風呂場に伸び伸びと浸かりたい、という気持ちから来たようだ。

しかし…


「…同じこと考えてる奴らが結構多い…って思っただろ?」

隣で浸かっている老人に声を掛けられた。

正しく、男が思っていたことだ。

周りを見回すとかなり人が多い。受付の人の忙しなさからも、今日は客が多いと分かる。

恐らく皆、自分と同じことを考えて風呂に浸かりに来たのだろう。


「いやぁ、本当にそうですね。ここにはよく来られるんですか?」

男も肯定し、問い掛ける。


「そうさなぁ、3日に1度は来てるかね。俺も母ちゃんも腰が弱いからね。毎日風呂掃除するのもしんどいんだよな」

しゃがれた声で老人が答える。


「それはそれは、お疲れ様です。でも羨ましいですね。私なんて湯船に浸かる暇も滅多に無いので」

男もリラックスしながら言う。


「駄目だな若いのは。風呂は毎日入らねぇとよ。でねぇと、どうやって疲れを取るんだ?」

老人がたしなめる。


「いやぁ、水道代とか毎日の忙しさとか考えると休みの日にしか入る気になれなくてですね…」

と男。


「そうは言うけどな、毎日入ったところで水道代なんてたかが知れてるもんだ。それに何時間も浸かれって話じゃねぇ。5分10分でも良いんだ。忙しかろうが、今の世の中それ位しねぇと倒れるぜ?」

段々と説教じみてきたが、老人が言うことは正しい。


「耳が痛い話です。でも、そうですね。もう少し自分を労るとしましょうか」

男が答える。


「そうそう、それで良いんだよ…おっとこんな時間か。先に失礼するな。この後母ちゃんと年越しそば拵えるんでな。それじゃな、兄ちゃん」

浴場の時計を見た老人はそう言ってさっさと上がっていった。

時間は18時。確かにそんな時間だ。


男はもう少し浸かっていようと足を伸ばした。

デスクワークがほとんどのため、首から腰が痛い。男はその辺りをさするように揉んで、もう少しリラックスした体勢を取る。

そうしている内に寝てしまう。


…ハッとして目が覚めると19時手前。男は慌てて風呂から上がった。



銭湯を出て早足で最寄り駅の方面に向かう。

この日、男は職場の同僚と会う約束をしていた。

普段は両親と年末年始を過ごす同僚だが、最寄り駅も近いことだし、たまには年越し蕎麦くらい一緒に食べようか、と誘われたのだ。


「お、来たな」

同僚が、男を見つけて声をかける。


「すまない。遅れた」

男も返す。


「良いって。それより早く並ぼうぜ?」

この日は駅前にある商店街の昔ながらの蕎麦屋で食べることになっていた。

早速行ってみると既に長蛇の列だ。


「おおぅ…これは2〜3時間コースだな…」

列を見た男が言う。


「だから言ったろ?並んでるから、早めに行った方が年越し蕎麦にちょうど良い時間になるって」

と同僚が言ってくる。

時刻は現在19時過ぎ。確かに年越しそばには良い時間になりそうだ。

男と同僚は蕎麦屋に並び始めた。

すると、


「あれ?あなたは…」

と後ろから呼び止められる。

振り返るとスーパーのレジ打ちの女性と酒屋の女店主が連れ立って来ていた。

10月の角打ち以来の珍しい組み合わせだ。


「やっぱり、常連さんだ」

レジ打ちの女性が言う。


「あんたも年越しそばかい?」

続けて女店主も問いかける。


「ええ、まあ…お二人揃ってとは珍しいですね」

と男も返す。


「すぐそこで会ったんです。行き先が同じみたいなので一緒に行こうってなりまして」

とレジ打ちの女性。


「ホントは親父とお袋も連れてくる予定だったんだけどね。親父がまた腰やっちゃって今はお袋が看てあげてるところ」

と女店主。


「そうですか」

と男が返すと、


「なんだなんだ、お前はこんな別嬪さん二人と知り合いなのか。憎いね」

とオヤジ臭い調子で同僚が絡んでくる。

この同僚は最近、自分には恋愛の芽が無いと思っている節がある。その分、他人の色恋沙汰を嗅ぎつけるとそれを娯楽のように楽しむ癖がある。


「知り合いっていうかそこのスーパーと酒屋のお店の方々だよ。あぁ、すみません。コイツは職場の同僚です」

と男は双方に双方を紹介する。


「どうも。三十路前のオッサンですが、宜しくね」

と同僚。


「あら、オッサンなんて。そんなに歳離れていないんですし、お兄さん、ですよ」

とレジ打ちの女性。


「嬉しいこと言ってくれますね。そうだ、折角ですし、一緒に食べませんか?」

と同僚が提案する。


「良いね。じゃ、ご相伴に与りましょうか」

と女店主。

そう言って楽しく会話すること3時間。ようやく店に入ることができた。



「ふぅー、店内は暖かいね。外の寒いこと寒いこと」

と同僚。


「ですね。厚着してても3時間も外にいるのは寒いです」

レジ打ちの女性が同意する。


「取り敢えず食べて芯から温まりましょう」

と男。


「あたしは天盛り。ここでの年越しは天盛りって決めてんだ」

酒屋の女店主が言う。


「寒いのに盛りですか…んじゃこっちはかけの花巻で」

と同僚。


「私は…鴨南蛮で」

レジ打ちの女性は鴨南蛮を選んだ。


「えぇと…にしん蕎麦で。あと…生ビールの小を」

と男は注文する。


「あ、ずりぃ。俺も生小」

「あたしも」

「私も」

結局全員飲むことになった。


「あ、皆さんも飲むのなら板わさと卵焼きも」

追加で男が頼む。


「お、気が利くねぇ」

女店主が褒めてくる。


注文した品が出てくる間も会話が続く。


「そう言えば花巻って何ですか」

レジ打ちの女性が言う。


「花巻蕎麦はね、まあ洒落た名前が付いてるけど蕎麦にちぎった海苔が乗っかってる物を言うんだよ」

同僚が説明する。


「あぁ、海苔蕎麦ですね」

女性が返す。


「海苔蕎麦って言われると風情も無くなっちゃうけど、まぁそういうこと」

同僚は頭をポリポリ掻きながら言った。

と、先にビールと板わさと卵焼きが出てくる。


「それでは、今年もお疲れ様でした」

と同僚が言って、皆で一口飲む。


「…んぐ…はぁーっ。いやー寒くても酒の味は変わらないね」

女店主が言う。


「ですね…ささっ、食べてくださいよ」

と男が勧める。

と、皆で板わさと卵焼きをつつき始める。


「あむ…むぐむぐ…」

「しゃぐ…むぐ…んぐん…」

「あむ…あむ…」

「…………」

四者四様の食べ方で各々楽しんでいる。

板わさは市販のものよりもプリプリとしている。

卵焼きは出汁がたっぷりと使われており、とてもジューシーだ。

共に良い酒の肴である。

その二皿を食べ終わる頃に、各々の蕎麦が席に来る。

天盛りの天ぷらはカラリと揚がったものがどっさりと盛られている。

花巻はつゆに浸っていない海苔が浸るにつれてゆっくりとつゆに溶けている。

鴨南蛮は鴨の油でつゆ全体が照っている。

最後に来たにしん蕎麦は甘く煮付けられたにしんがテラテラと光っている。

それぞれが食欲をそそる逸品だ。


「お、来た来た」

男がニンマリとした顔で蕎麦を受け取る。


「これ食べないと年を越す感じがしないんだよね」

と女店主。


「さ、食べましょ」

レジ打ちの女性も受け取った蕎麦を卓に置きながら言う。


「ぞぞっ…むぐ…むぐ…」

「ぞっ…んぐん…」

「ぞっ…ちゅるちゅる…むぐむぐ…」

「ぞっ…あっふ…ぞっ…むぐ…んぐん…」

蕎麦のすすり方も四者四様だ。

酒屋の女店主は流石に昔からの酒屋の娘なので思い切りの良いすすり方だ。蕎麦の後は天ぷらをつゆに付けてしゃぐしゃぐと食べている。

男の同僚は一口ですすった後、噛まずに飲み込んでいるようだ。海苔が喉に張り付かないのだろうか。

レジ打ちの女性はすすりきれずに、チュルチュルと蕎麦を食べている。その後、鴨と葱を一緒に食べている。

男は思ったよりも熱かったようで、一瞬咽たようだ。一口蕎麦をすすった後ににしんにかぶりつく。甘く濃く煮付けられた味がビールによく合う。

男はビールをさらに追いかける。


「んぐ…んぐ…はぁ〜っ」

にしんの煮付けの濃い味付けで満たされているところにビールが来る。

爽快感のある炭酸と苦味で、濃い味付けが流されて次の一口の準備ができる。

男はさらに一口すする。



食べ終わった後には既に23時近くになっていた。

少し時間を置いてから、近くの神社に初詣に行こう、と男たちは話す。

ふと、遠くの方から除夜の鐘が聞こえてきた。


「お、今年ももう終わるなぁ」

と同僚。


「なんだか大変な一年でしたね」

レジ打ちの女性が続ける。


「確かに。何か疲れたよねぇ」

今度は酒屋の女店主。


男はふと、銭湯での老人の話思い出した。

「来年はもっと余裕を持って行きたいですね」

男はしみじみと言った。


今年も、もうすぐ終わる

そして、新しい一年が始まる。

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