第43話 卵酒と薬膳粥
「…ぶえっくしょい!…あー…」
1月の下旬の金曜日の夕方。男は盛大にくしゃみをした。
思えば今日は隣の課のメンバーが頻繁にくしゃみをしていた。
男自身も15時を過ぎてから体に違和感が出ていた。
鼻水が止まらない。くしゃみもする。喉がいがらっぽく、咳も出る。悪寒がするのに頭は熱っぽい。
要するに、
「完全に風邪だな」
男は思った。
明日からせっかくの土日休みなのに寝込んで終わりか、そう思うと余計に男の体は重くなる。
しかし治さなければいつまでも辛いままだ。
「…ううー…」
頭が呆っとする。
目眩がするほどでもなく問題無く帰れるが、思考がまとまらない。
とにかく栄養をつけて寝なければ、男はそう思いつつ、気付くといつもの酒屋の前にいた。
何も考えることもできず、ただいつもの習慣から男は店に入っていく。
カランッとドアベルがいつもより弱々しく鳴る。
「いらっしゃ…アンタどうしたの?顔赤いよ?」
店に入るなり女店主が男の様子を見て心配する。
男も、風邪を引いているのになぜ自分は酒屋に寄ったのか、と思いつつ、店に入ったからには何か買わないと、と考える。
そして出た答えが、
「…良い感じの薬草酒ありますか…」
弱々しい声で女店主に問いかける。
「アンタ…全く、風邪ならこんな店に寄らずに早く帰って寝るもんだよ」
女店主がたしなめる。
「はは…いやぁ、習慣ってのは怖いもので。気付いたら店に入ってまして」
男も返す。
「はぁ…全く…。んー、ちょっと待ってな」
そう言うと女店主は店の奥に行ってしまう。
店の奥から何やら会話が聞こえた後、少しドタバタと音がしてから女店主が戻ってきた。
「あんた、家に米と土鍋、あと卵ある?」
女店主が問い掛ける。
「え?…あ、はい。ありますね」
何のことだか分からないが、男も一応答える。
「よし…いつも贔屓にしてもらってる常連さんなんだ。今日くらいはアタシが面倒見てやるよ」
女店主がガサリと紙袋を持って歩き出す。
「歩けはするんだろ?アンタの家まで案内して」
女店主は続ける。
「え?いや、でもお店は…?」
男が問う。
「その心配はありませんよ。私が店番しますから」
と、後ろから先代が言ってくる。
「でも私なんかのために」
と、男は申し訳なさそうに言う。
「なんか、なんて言わないでください。いつも贔屓にしてもらっているんですから。それに目の前に具合の悪い人がいて放っておけないでしょう?」
先代が諭すように言う。
「あー、ではお言葉に甘えます…」
諦めたように男が言う。
「よし、なら行こうか」
女店主が呼びかけて、男は共に家路につく。
二人の後ろ姿を見送りながら、先代店主は妻に、
「母さん、もうすぐアイツの晴れ姿見られるなぁ」
と呟く。
「気が早いですよ。あの子、奥手ですから。それにあの男の人も昔のあなたそっくりじゃないですか。真面目で、女の気持ちに疎そうで。あの頃の私みたいに、ガツガツ行かせなきゃダメですよ」
笑いながら先代の妻は言う。
「思い出させるな。恥ずかしい」
先代は頬をポリポリと掻いた。
一方男と女店主は男の家の前まで来ていた。
「そう言えば、女性を家に上げるのは初めてですね」
男は思い出したように言う。
「お?何だい?期待してる?」
と女店主はニヤニヤしている。
「いや、風邪で怠いのにそんなこと考えられないですよ」
言いながら男は家の鍵を開ける。
「なんだ、残念」
女店主はニヤリと笑って返す。
残念とは?と男は思ったが、思考がまとまらないため、理解できない。
「…へぇ。結構キレイにしてるじゃないか。少し散らかっているけど」
男の部屋は単純にモノが多いので、雑然としているが、定期的に掃除はしているので汚くはない。
「えーと、道具とか冷蔵庫の中身とか触られたくないものとかある?」
女店主は男に聞く。
「いえ、別に。何か手伝うことはありますか?」
男が言う。
「ならアンタは寝てな。病人が変に気を使うもんじゃないよ」
ぴしゃりと言う。
「はぁ、分かりました」
呆っとした顔で男はベッドへと吸い込まれていく。
「さて…と、やるか。まずは道具と食材だな」
と周囲を見回すと、幸いにも道具類は一目見て分かるところに置いてある。必要な食材も冷蔵庫にあった。
女店主は道具を取り出し、食材を並べる。
【卵酒】
・卵
・はちみつ
・日本酒
【薬膳粥】
・米
・乾燥貝柱
・鶏がらスープの素
・クコの実
・松の実
風邪の時といえば卵酒等の病人食だ。
日本酒を沸騰直前まで湯煎したものを、しっかりと溶いた卵とはちみつを混ぜたものにゆっくりと注いで出来上がる。
風邪の時の粥の作り方も家々で千差万別だ。
女店主のいる酒屋の家系では、店で売っている品物を粥の中に入れるのが主な作り方である。貝柱やクコの実、松の実は酒のアテとして売られているが、薬膳にも使われたりするほど栄養豊富である。
女店主はまず粥の準備を始めた。
湯を沸かして100ccほどの鶏がらスープを作っておく。この時、100ccで通常のスープと同じ濃さになるようにスープの素を入れる。
米半合約80gほどを研いで土鍋に入れ、貝柱を5~6個、クコの実と松の実は両方合わせて一掴みほど入れる。水650ccと先程のスープを注いでザックリ混ぜる。こうすることで病人向けの薄味になる。水分が多めだが、貝柱やクコの実が水分を吸うためだ。
中火にして煮立ってきたら底をすくうように混ぜる。弱火に変え、箸1本を挟んで蓋をする。
このまま40分ほど。
その間、卵酒を拵える。
女店主は店から持ち出した日本酒を取りだす。京都は伏見の純米吟醸で、力強い旨味は少ないものの、クセは少なく甘い香りが際立つ代物だ。
それを200ccほど徳利に注ぎ、鍋で湯煎にかける。
卵はマグカップに1つ割り入れ、はちみつ大さじ2を入れ、筋が残らないようにしっかりと溶いておく。はちみつではなく砂糖の方が主流だが、この酒屋の家系では、体に良さそう、という理由ではちみつを使っている。
湯煎した日本酒が沸騰直前まで温まったら、卵が固まらないようにゆっくりと注ぎながら混ぜて、完成だ。
先に卵酒を男の下に持っていく。
「はいよ。卵酒だ。これ飲んで暖まんな」
女店主は男の前にマグカップを置く。
「あぁ、これはどうも。卵酒なんて初めて飲みますね」
ベッドに寝ていた男が起き上がる。
「そうなのかい?結構旨いもんだよ」
「へぇ…ふーふー…んぐん…ほぅ……プリンみたいな味がするんですね」
男がゆっくりと飲む。
「だろ?子供の頃なんか酒の代わりに甘酒でよく作ったもらったものよ」
と女店主も誇らしげだ。
「良ければあなたもどうですか?あなたのことですから美味しい日本酒で作ったんでしょ?まぁ、私はこの卵酒を頂きますけどね」
と男が言う。
「えぇ…看病する人が飲むって聞いたことないよ」
女店主が呆れるが、
「良いじゃないですか。たまにはサシで飲みましょう。冷蔵庫に良いアテもありますよ」
と男はヘラヘラと言う。どうやら風邪で頭がフワフワとしているようだ。
「はぁ、本人が言うなら良いけどね。でも本当ならアンタが元気な時に飲みたいもんだねぇ」
と言いながら女店主は棚から適当な切子を持ってきて先程の日本酒を飲む。
「んく…んく…はぁ、やっぱり伏見の酒はするする入るね」
女店主はさらりと飲み干すが、顔色一つ変えない。
そうしている内に、粥が出来上がる頃合いだ。
「おっと、そうだ。ちょっと待ってな」
女店主は鍋敷きを食卓に置き、土鍋を取りに行く。
蓋を開けてみると良い出来栄えだ。ざっくりと上下を混ぜて男の下へ持っていく。
「はい。お粥だよ。しっかり食べな」
女店主は食卓に置きながら言う。
男も早速一口頬張る。
「ふーふー…あぐ…もにゅもにゅ…んぐん…」
鶏ガラの淡い旨味に加えて貝柱の旨味もあり、レンゲが進む。
そこにクコの実のグニグニした食感と松の実のコリコリした食感が挟まり、病人食とは思えない楽しさがある。
「あなたも何かつまめば良いですよ。冷蔵庫に色々あったはずです」
男が言う。
「あんたも強情だね。そんなに一緒に飲みたいかい?」
女店主が呆れる。
「いやぁ何ででしょうね。何だかお礼したくって」
男が言う。
「ま、そういうことならありがたく受け取っておくよ。そうだねぇ…生麩とか貰っちゃおうかね」
「へぇ…伏見の酒だからですか?」
「分かってるじゃん。その通りだよ」
そんな会話をしながら、しばし二人で食べながら過ごした。
「お、食べ終わったね。じゃあ片付けとくよ」
女店主がさっさと食器を片付ける。
「3合近くの日本酒をあんな短時間で飲んでおいて随分としっかりしてますね」
男が感心する。
「こうでもなきゃ女だてらに酒屋の主人なんてやってらんないよ。まぁ、別に飲めなくても構わないとは思うけどね」
女店主もヘラっと笑って答える。
「いやぁ、凄いものです…ふあ…んー、すみません、少し眠くて」
男が軽く欠伸をする。
「良いんだよ。風邪で疲れてるんだろうし、腹が満たされて眠くなってるのさ。後の片付けは全部やっとくからアンタは寝てな」
「お言葉に甘えます」
と、男は布団に潜り込んだ。
その寝顔を見て、女店主は静かに微笑んだ。
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