第44話 大和芋の磯辺揚げ
「…やっぱりまだ怠いな…」
1月下旬の金曜夕方。職場から家路についている男は軽く首筋を伸ばしてそう言った。
先週末に風邪を引いた男からは諸々の症状は無くなったものの、まだ体に怠さを残していた。
「…熱も無いし、喉も鼻も…大丈夫だな…けど快復ではないか」
男は点検するように自分の体の調子を確認する。
既にほぼ快復に近い状態だが、怠さだけが残っているようだ。
「今日は栄養のあるもの食べて気合い入れよう」
と、男は商店街の八百屋へ向かう。
「いらっしゃい。今は根物野菜が美味しいよ!」
八百屋の主人に声をかけられる。
店頭には沢山の根菜類が並んでいる。
大根、蕪、蓮根、人参と並ぶ中で、男は長芋や大和芋も並んでいるのを見つける。
だが…
「…大和芋ってこんな形だったか?」
男はぼそりと呟きながら首を傾げる。
男が手に取った芋はイチョウの葉の形をしている。
「お客さん、関西の出身で?」
呟きが聞こえた八百屋は男に問いかける。
「いえ、生まれも育ちも神奈川ですが…あ、父は関西です」
「だったらその影響かも、ですね。いえね、関東と関西じゃ大和芋って別物なんですよ。関東のは今そこにあるイチョウの葉の形で、関西のは所謂ツクネイモって言われてる丸っこいやつなんですよ」
「なるほど…だからイメージと違ったんですね」
「ええ、ええ。ちなみに長芋よりかお値段張っちゃいますけど、その分粘り気も味も強いですよ」
「粘り気が強い…色々できそうですね。なら、この大和芋をお願いします」
「毎度!…そうだ。もし磯辺揚げとか作るなら、そこの酒屋でツマミとして売られてる味付け海苔。こいつを使ったら結構旨かったですよ」
「磯辺揚げですか!良いですねぇ。なるほど、ありがとうございます」
と男は礼を言って会計を済まし、サッと酒屋へと向かう。
カランカランと酒屋のドアベルが鳴る。
「いらっしゃい。お、どうだい調子は?治った?」
女店主が聞いてくる。
「お陰様で。ただ、本調子じゃないので滋養に良いものを食べようかと」
と男は八百屋で買った大和芋を見せる。
「うん、殊勝なこった。何作るんだい?」
「磯辺揚げが良いかな、と。八百屋さんで聞いたのですが、味付け海苔も売ってますよね?それ使いたいんですが」
「磯辺揚げに味付け海苔ぃ?うーん、まぁ良いか。なら酒も淡白な日本酒じゃないほうが良いね?」
「ええ、焼酎とか合うんじゃないかなと思います」
「だろうねぇ。水割りとかが無難だね…ほら、これなんかどうだ?あんたの好きな麦焼酎だよ。あと、こっちが味付け海苔」
と女店主は麦焼酎の瓶と味付け海苔を持ってくる。
「この辺りじゃあまり見かけないけど、麦の香り豊かで旨い酒だよ」
女店主が続ける。
「良いですね。ならその2つお願いします」
と、男も財布を取り出して支払う。
「はいよ!病み上がりなんだから深酒しちゃいけないよ。なんなら今日も作ってやろうかい?」
「いえいえ、流石に何度もお世話になるわけには」
「そうかい?ならこれ以上言わないけど。この間の風邪に限らず、あんた最近調子悪そうなんだから、気を付けなよ」
と女店主。まるで母親だ。
「ええ。肝に銘じておきますよ」
と、男は笑いながら言って店を出る。
家に着き、男は早速台所に食材を並べる。
【大和芋の磯辺揚げ】
・大和芋(イチョウ芋)
・味付け海苔
・塩
この手の磯辺揚げは手間もかからず簡単に作れる。
芋を擂り、海苔で挟んで、揚げる、それだけだ。
男はまず、棚をガサゴソと探すところから始める。
と、引っ張り出してきたのは擂り鉢だ。以前に買ったものをあまり使わないからと棚の奥にしまっていたのだ。
軽く洗って付近で拭いておく。
次に芋の準備。
男はスプーンで皮を剥き始めた。表面が凸凹しているため、ピーラーや包丁では剥きづらいのだ。加えて皮が柔らかく、スプーンで剥くのが楽なのだ。
男は持ち手の部分を残して全て皮を剥ききる。
続いて芋を擂る。
先程の擂り鉢で大和芋を擂り、とろろにしていく。だが、粘り気が強く、なかなか擂り終わらない。
男は10分経った辺りでその手を止めてしまった。
「ふー…怠…」
と、男は再び棚を探して今度はハンドブレンダーを引っ張り出す。
続いて、大和芋の皮が残っているをスプーンで剥ききり、ハンドブレンダーの容器の中に入れる。そのままハンドブレンダーを回し、とろろにした。
「最初からこうすれば良かった」
男はぼそりと言いつつ、擂り鉢の中身と合わせる。
怠いから滋養に良いものを食べるのに、それの調理で怠くなってたら本末転倒だ。
ともあれ男は調理を続ける。
片手鍋で油を熱する。菜箸を入れて、先端から勢いよく泡が出るほどの温度にする。
味付け海苔1枚に対して、とろろ大さじ1強を載せて摘むように挟む。
それを熱した油に入れる。表面が揚がれば良いので、10秒ほどしたらひっくり返す。さらに10秒したら油から上げて、キッチンペーパーを敷いた皿に盛り付けていく。
最後に塩を振りかけて、完成だ。
グラスに氷を入れ、麦焼酎と共に食卓に並べる。
磯辺揚げからはユラユラと湯気が上がっており、いかにも美味そうだ。
男はそれを眺めながら麦焼酎をグラスに注ぎ、口を付ける。
「んぐ…んぐ…ふへぇ」
鼻から抜ける豊かな麦の香りが、心地よい。
なのに飲み口は軽く、スイスイと飲める。
男はもう一口飲もうとしたが酒屋の女店主の、深酒するな、の言葉を思い出して手を止めた。
代わりに磯辺揚げに目線を向ける。まだ湯気がユラユラとしている。
男はその内の一つにかぶりつく。
「あっつ…あふ…サクッ…むぐむぐ…んぐん…」
揚げたてなので熱かったようだ。
しかし、食べてみると表面はサクサク、中はモチモチな上にフワフワと軽い食感だ。
芋のほのかに甘い味も確かに感じ、とても旨い。
…だが、
「…味付け海苔はダメじゃないか?」
男は思った。
芋の滋味深い味わいの良さが味付け海苔の濃い味によって霞んでいるのだ。おそらく八百屋の主人はジャンキーな味が好きなのだろう。
ともあれ男は麦焼酎に手を伸ばし、グイと飲む。
「んぐ…んぐ…くはぁ!」
軽やかでスッキリとした味わいと豊かな麦の香りが、油を吸って若干ジャンキーになった味付け海苔の味を優しく包み込む。
女店主の目に狂い無し、こうなることを見越してこの酒を選んだのだ、と男は感心した。
大和芋の磯辺揚げはサクサクと軽く食べられるので、すぐに完食した。
男は最後に焼酎を一口飲みつつ、今日の酒屋の女店主を思い出していた。先週もだが、今週も大分心配されたようだ。あまりあの人を心配させたくない、男は何故かそう思いながらも、麦の優しい香りを感じていた。
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