第42話 豚肉のみぞれ鍋
「…Sounds good…Thanks too…終わりました…」
疲れ果てた顔で男が言った。
1月中旬の金曜の22時半。男は課長と同僚と共に遅くまで残業していた。
「はぁー、終わったか!まーったくあのアラビア野郎!今度会ったら高い飯奢らせてやる!」
同僚が語気を強くして言った。
「いやー、大変だったね。ごめんね二人とも。こんな遅くまで」
課長も疲れた様子で言う。
「いえいえ、こちらの台詞です。私達二人の案件にこんな時間までありがとうございます」
と男が返した。
「いや、俺ら3人誰も悪くないですよ。悪いのは注文後に要件を変えると言い出した客と、それを止めようとしないあのアラビア野郎です!」
同僚が言う。
この日、定時直前にサウジアラビアの営業から連絡があった。曰く、客が要件を変えたから注文内容を変えてくれ、とのことだ。しかし、注文内容の変更期間は既に過ぎている。協力会社への発注も済ましており、今更変えられない。
しかし、変えられなければ注文を取り消される、と食い下がられ、先程まで問答が続いていた。
その間、課長は営業役員に事情を説明。怒った役員が「そんな客の注文なんぞ不要」と現地マネージャーに連絡をした。その後、営業が客を説得し、変更対応の追加発注をする形で収束した。
先程の電話の内容は現地マネージャーからの謝罪と今後の営業対応の説明らしい。
「まあまあ、担当の子は若手でまだ仕事に慣れていないから、お客さんの言うことが通るって思ってたんでしょ。それより時間大丈夫?まだ電車ある?」
と課長。
「そう言えば…あー、これは間に合いませんね…」
同僚が答える。
「…ならタクシー代出そうか?」
と課長。
「いえ、そこらのホテルに泊まりますよ。そっちの方が安いです…もしくは親切なご近所さんがいれば頼もしいなぁ?」
同僚がニヤッと笑いながら言う。
「…まあ、良いけど。自分の飯代は出せよ?」
男が答える。
「もちろん。と、言う訳で、タクシー代もホテル代も不要です!」
かなりの残業後なのに同僚が元気良く課長に言う。
「なら良かった…俺のは…まだ終電あるな。じゃあ、俺は帰るとするよ」
課長はさっさと帰っていく。疲れから足取りが重そうだ。
「さて、じゃあ途中で飯と酒でも買って帰るか」
男が言って二人とも上がることにした。
「うお、寒いと思ったら」
同僚が驚く。
外に出てみると空から降っているものがある。
「これは…みぞれか」
男も反応する。
「終電終わった上に冷たいみぞれとは、俺のツキも中々だな」
同僚も自嘲する。
「にしてもお前終電早くないか?そんな遠くないだろ?」
男が聞く。
「確かに家から会社までで1時間かからないけど、途中で私鉄に乗り換えるんだよ。これのラストが早くてね」
同僚が答える。
「私鉄かぁ。モノによっちゃ確かに早いよな」
男も同情する。
「そういうこと。ほれ、早く行かないとスーパー閉まるだろ?この間バイトの子が言ってたろ?」
同僚が急かす。
同僚の言う通り、あのスーパーは23時に閉まる。
この間の年越し蕎麦の際に、行列の最中での会話で聞いていたのだ。
「はいはい、んじゃ、行くぞ」
二人は早歩きでスーパーに向かった。
スーパーに着いた頃には23時まであと15分ほどになっていた。
「さて何食べるよ?」
男が聞く。
「やっぱ寒いし、鍋じゃね?」
と同僚。
男は外をふと見て、
「なら、みぞれ鍋にしよう」
と言う。
「お前、連想ゲームかよ」
「良いじゃないか。みぞれ降る中でみぞれ鍋ってのも洒落てるだろ?」
「…だな。となればまずは大根か。肉はどうする?それとも魚?」
男はふと考え込んで、
「オーソドックスに豚肉にしよう。あとは…」
と男は野菜をカゴに入れていく。
エノキ、シメジ、白菜、そして大根。
「うん、鍋っぽい良いチョイスだな。豚肉は沢山入れようぜ」
アジア各国を食べ歩いたグルメな同僚だが、こういう時はわんぱくだ。
「で、酒は?」
二人で考え込む。
「まぁ、順当に日本酒だろ」
同僚が言う。
「だな」
と、二人で酒類の棚に向かう。
交差点の向こうの酒屋には及ばないが、ここも酒の品揃えは悪くない。
希少なものや高価なものは酒屋に軍配が上がるが、割安且つ有名どころの日本酒は良い勝負と言える。
「んー…これなんてどうだ?」
同僚が瓶を一本取り出して男に見せる。
神奈川県は丹沢の
「その心は?」
男が問う。
「大根が同じ産地だからな、揃えてみたのさ。あと、この酒は冷でも燗でも旨い」
同僚が回答する。
「よし、それにしよう」
男は即答した。
「OK。ならレジへ急ぐぞ」
同僚が急かす。
いつの間にか閉店まであと5分を切っている。
レジに向かうと、いつもの女性が時計を見ながら佇んでいた。終業を今か今かと待っているようだ。
同僚もこの間の女性だと気付いて、声をかける。
「どうも。この時間に働いてたんですね」
と同僚。
「あ、この間の。いらっしゃいませ。そうですね、いつもこの時間をシフトに入れてますよ。今日お二人なんて珍しいですね」
女性も返す。
「こいつの終電が早くてですね、ウチに泊めてやろうって話になったんですよ」
男が説明する。
「そうですか。終電逃したのは大変ですけど、泊まって料理もご馳走になって、万々歳ですねぇ」
笑いながら女性は言う。
「いや、飯はこいつに作らせますよ」
それに対して男が言う。
「は?俺かよ」
同僚は驚く。
「宿代の代わりだよ。それに俺よりも料理上手いじゃないか」
と男は返す。
「え?料理できるんですか?」
今度は女性が驚く。
「まあ、できますけどね…仕方ない作るかぁ」
溜め息をつきながら同僚が言う。
「良いなぁ。私料理なんて全然できなくて…」
と、女性は羨望の目を向ける。
「まぁ、やってる内に慣れるものですよ。料理なんて」
同僚がサラッと言う。
「そうですかねぇ」
と会話しつつも、女性のレジウチは止まらず、会計を済ませる。
「良ければ今度料理教えて下さいよ」
会計後、女性が言う。
「俺やコイツで良ければ、いつでも」
同僚が答える。
「是非。ありがとうございました」
女性が元気に言う。
会計後、品出しをしていた店長が女性に話しかける。
「君、あの男の人が好きなんじゃなかったんだね」
「へ?」
女性は何のことだか分からず、素頓狂な声を出す。
「君が好きだったのはあの男の人じゃなくて、家庭的な男性じゃないかってね」
女性の反応に店長も苦笑いしながら返す。
「え?何で…?」
女性は相変わらず何のことだか分からない様子だ。
「…まあ、良いけどね。決める時は、自分の気持ちに嘘ついちゃいけないよ。……あぁ、そうだ。どうしてもどちらか決められない時は、競合が少ない方にするのも一つの手だよ」
店長はニヤリと笑ってまた品出しに戻った。
女性は店長の方を見続けながら呆けていた。
一方、男と同僚は家に着き、せっせと鍋の準備をしていた。
「食器出すのと大根おろしはやっておくから、鍋は任せたぞ」
と男が言う。
「おうよ」
同僚が返事をして食材を台所に並べ始める。
【豚肉のみぞれ鍋】
・豚バラ肉薄切り
・大根
・白菜
・エノキ
・シメジ
・めんつゆ
・酢
みぞれ鍋とは大量の大根おろしを乗せた鍋のことだ。白い大根おろしが地面に積もったみぞれに見えることからそう呼ばれる。
作り方も単純で、普通の鍋に大根おろしをどっさりと乗せるだけだ。
男は早速取り皿と箸、猪口そしてカセットコンロを食卓に置く。
その間、同僚は大根半分の皮をむく。食卓の準備を終えた男は大根をおろし金でおろす。
一方同僚は土鍋の底に軽く水を敷いて、白菜半分をザクザクと切っていく。切った白菜から先程の土鍋に入れていく。エノキやシメジも石づきを取ったら適当にほぐして、同じく土鍋に詰め込む。
豚肉は300g。一旦湯を沸かして軽く湯通しして土鍋に入れる。
そうして食材を詰め込んだ土鍋に、麺つゆをお玉で3つと酢を半分入れる。
カセットコンロに土鍋を置き、点火。
そのタイミングで男も大根おろしを作り終える。
そして別の鍋にたっぷりと水を張り、湯を沸かす。食器棚をガサゴソと荒らして徳利を引っ張り出し、サッと洗う。日本酒を徳利に注ぎ、鍋の湯が沸いたら火を止めて3分ほど徳利を肩まで浸す。
良い具合に燗になったら、食卓へ持っていく。
タイミング良く、鍋の中も火が通ってきたようだ。
同僚が蓋を開け、男が大根おろしを全て乗せ、一旦蓋を閉じて蒸らす。
1分ほど蒸らしたら完成だ。
徳利からはゆらりと、土鍋からはもうもうと湯気が立つ。その土鍋には真っ白な大根おろしが一面に広がっている。
男と同僚は互いに酌をして、まず日本酒を飲む。
「乾杯。んぐ…んぐ…はぁー、あったけぇ」
と同僚。
「あー、体に染みる…さ、鍋鍋」
と男は土鍋に手を伸ばし、自分のと同僚の分をよそう。
二人で一斉に白菜、キノコ、豚肉を箸で掴み、大口を開けて頬張る。
「あぐ…はぐ…しゃぐ…しゃぐ…むぐ…んぐん…」
「旨いなぁ…冷えた体に染みる…」
白菜は自らの水分を湛えつつ、豚肉とキノコ、そして調味料の味を吸い、肉にも劣らない食べでを演出している。
豚肉やキノコは逆にそれぞれの旨さを出しながら、白菜の水分に蒸らされてとてもジューシーだ。
全体的に鍋の味付けは濃い目なのだが、それでもあっさりと感じるのは大根おろしのおかげだろう。
染みる、その言葉が何よりもピッタリ来る味だ。
男と同僚は再度日本酒を互いに注ぎ合い、猪口を飲み干す。
「んぐ…んぐ…んぐん…ふはぁ」
「あー……ん…雪になってる」
気がつくと、先程まで降っていたみぞれが雪に変わっていた。相当冷え込んでいるのだろう。
「雪の中、温かい部屋で温かい鍋と日本酒を頂く。俺ら凄く贅沢だな」
同僚が言う。
「ああ、全くだ」
男も答える。
酒は丹沢の燗酒。肴は旨い鍋。どこぞの演歌ほど哀愁は漂っていないが、もう一つ今日の愚痴もアテにしつつ、二人は飲み進めた。
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