第34話 塩炒り銀杏

「…今週は怒られたなぁ…」


11月も中頃に差し掛かった金曜日の夕方。男は心身共に疲れていた。

このところ男は仕事の調子が良かった。それ故に新しい業務を任されたのだが、慣れない作業にアタフタしたり確認が漏れたりして、何度か注意を受けたのだ。


「ヤケ酒ヤケ食いでも良いけど、こんな時は疲れる飲み方したくないなぁ」

心と体が疲れているときは体力を使う食事の仕方は避けるべきだ。

そんな時は濃い味付けや脂ぎったものよりも滋味溢れるものをゆっくり食べたほうが良い。

男は本能から、そんな食事を欲したようだ。


「…にしても寒いな。疲れ、寒さ、空腹と来たら次は病だ。さっさと何か食べて温まって寝よ」

男の持論である。この3つに水分不足が重なると人は絶対に病気になる、と男は思い込んでいる。

早いところ空腹と寒さから逃れよう、と男はいつものスーパーに入っていく。



スーパーに入り、男は店内を見回す。

鍋物等の冬の食材が増えてきて、クリや一部のキノコなど秋の食材の陳列スペースが狭くなっている。

暦の上では立冬も過ぎ、気温も段々と下がってきている。

季節もガラリと変わってくる頃だろう。


「何にしようかな」

最近は食べたいものや飲みたいものが決まっていることが多かったが、今日は全くのノープランだ。

男は店内をウロウロと歩き回る。


「肉って気分じゃないな。魚も…寒い時期のは脂が乗ってて今の気分じゃない。適当に温野菜作って食べるか?」

と青果コーナーに近づいたところで、男は足を止める。


「そうか、まだこれあったんだ。もう名残の季節だな」

男が手に取ったのは、銀杏ぎんなんだ。

同じ漢字でその木のことをイチョウとも読む。秋頃に旬を迎え、種の外側の柔らかい部分は強烈な臭いを放つ。しかし、その内側の硬い殻を割った更に内側は、茶碗蒸し等の料理にもよく使われるものだ。

男はその銀杏ぎんなんを晩酌にすることに決め、カゴの中に1袋入れた。

他にも不足してきた調味料等も買い足す。

あとは酒である。


「体が温まるようなアテじゃないからな、酒の方は温かくしよう」

要は燗をする、ということだ。

日本酒は温度によってその表情を変える。

5℃の雪冷えから55℃のとびきり燗までその表情は様々だ。

中でも男は人肌よりも温かいぬる燗が好きである。

そして、そういった燗をすると旨くなる酒には特徴がある。旨みが強いような酒だ。なので、


生酛きもと山廃やまはいだな」

これらの酒は旨み成分が豊富なため、温めると更にその良さを感じ取ることができる。

男は酒類の棚に向かった。


「どれに…しよ…か…。お、なんだ、これがあるのか。ならこれで決まりだな」

男が見つけたのは普段からよく飲む灘の山廃造りの酒だ。以前酒屋でも買ったが、よく出回っている酒のため、ここでも買えるようだ。

男はそのままレジに向かった。


いつものレジ打ちの女性がそこにいた。最近見なかったので、久しぶりに見た感じがする。

女性もこちらに気付いて会釈する。

「こんにちは、久しぶりですね」

男が言う。


「そうですね。前話した他のバイトの子と代わってあげたりして。でも、今週からまた通常営業です」

と女性は朗らかに言う。


「ところで、酒屋の店主さんとは仲が良いのですか?」

ふと、女性が訊く。


男は突然の質問に驚きつつも、

「まぁ、会ってからもう3年になりますからね。仲が良いかと言われると分からないですけど、変な気は遣う必要ないですね」

と答える。


「そうですか…」

一瞬女性はしゅんとしつつも、


「変なこと聞いちゃいましたね、すみません。お会計1,944円になります」

さっさと会計をして誤魔化した。


男も一瞬見えた暗い顔に、何か悪い事でもしたか、と気になりつつも会計を済まして家路についた。



家に着き、男は早速食材を台所に並べ…と言っても塩と銀杏ぎんなんだけだ。

男が作るのは塩炒り銀杏ぎんなん銀杏ぎんなんの最も簡単な食べ方の一つだ。

要は殻を割った銀杏ぎんなんを炒るだけというものだ。


男は早速部屋の引き出しからレンチを引っ張り出し、そを使って銀杏ぎんなんの殻を割る。食べ過ぎると中毒を起こすため、この日は10個ほど。

殻を割った銀杏ぎんなんをたっぷりの塩と共に雪平鍋に入れ、点火。塩を入れることで熱伝導を良くするのだ。

5分ほど炒れば香りが立ってきて、殻にほんのり焼き色がついてくるので火を止める。


銀杏ぎんなんを炒っている傍ら、男は燗の準備も進める。

引き出しから1合の徳利を出し、軽く洗う。

鍋で徳利の肩まで覆える程度の湯を沸かし、その間に、徳利に日本酒を注ぐ。

湯が沸いたら火を止めて、徳利を浸して2分半。これで良い具合にぬる燗位の温度になる。


ぬる燗が出来上がるタイミングで銀杏ぎんなんを塩と共に皿に盛り付けて、完成だ。

徳利の湯を拭き取って食卓に並べる。

男は早速、日本酒を猪口に注いでその香りと味を楽しむ。


「すぅ…はぁ…クイッ…んぐ…ほぅ…」

男は日本酒の香りを深く吸って一口含んだ。

冷やの時よりも香りが立つ。旨みも強く何より燗をしているため体の芯から温まる。

思わず溜息を零す。

男は続いて銀杏ぎんなんをつまむ。


「あちち…パキッ!…あむ…むぐむぐ…んぐ…」

炒めてからさほど時間が立っていないのでまだ殻が熱い。

中身も熱を持って結構熱い。それに塩を軽くつけて食べてみると、ねっちりとした食感と滋味溢れる味わいが口の中に広がる。

濃厚かつ穏やかなその味わいに男も破顔する。

そのまま日本酒を流し込む。


「んぐ…ふはぁ…」

銀杏ぎんなんの苦味を含んだ旨味が日本酒のそれと混ざり合い口腔に広がる。

男はゆっくりと目を閉じてその余韻を楽しんだ。



食後、男は先程までの疲れが和らいでいることに気がついた。

滋味溢れる季節のものを食べる、人間の体はそれだけでも回復するものだ。


「そう言えば今日のあのバイトの娘は何故暗い顔をしたんだろう?」

疲れが抜けて余裕が出てきた男は今日のことを思い出す。


「まぁ、理由を聞いて、今度謝っておこうか」

鈍感なことだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る