第51話 菜の花の辛子和え

「…暖かくなってきたな」


3月も末頃の金曜日夕方、男はぼそりと言った。

桜はあちらこちらで咲いており、品種次第では散り始めているものも多い。


「いい加減、これも着なくて良いよな」

と、男は着ていたコートを脱ぎ、手に掛ける。

暑さも寒さも苦手な男は、先週までの肌寒さからまだコートを手放せずにいた。

しかし20度弱の気温も続いてきている。そろそろコートも仕舞う頃合いだろう。


「にしても…ふあ…最近眠いな…」

春眠暁を覚えず、とはよく言ったもので、寒さ厳しい冬の後の春の暖かさは人を目覚めから遠ざける。

実際に男は寝ていた訳ではないが、程よく温い気温のために体がリラックスしきっているのだろう。


「…あぁいかんな。晩酌の前からウトウトしてるようじゃ…そうだ、今日は目が覚める物を食べよう」

そう思った男は、食材を物色するために商店街へと入る。



商店街では、店仕舞前の安売りがそこかしこで繰り広げられている。

男は目が覚めるような食材はないかと歩き回る。

男がイメージするのは昨年食べた独活やこの間のフキノトウのような山菜だ。春らしい爽やかな風味は食べるとスッキリとする。

そう期待しながら男は八百屋の方へと向かう。


「らっしゃい!今は何でも安くしちゃうよ!」

八百屋の主人に声をかけられる。

男も会釈で返すが、その顔は強張っている。店仕舞直前の時間で買うと、あれもこれもとお勧めされて大量に買わされるからだ。

とは言え最初何を買うかを決めるまではお勧めの嵐もやってこない。男はじっくりと店先の品揃えを見つめる。


「あぁ、そういえばこれも春らしいよな」

男が手に取ったのは菜の花だ。

独特の苦味が春を感じさせる食材だ。


「お、お客さん、葉の花とは良いもの選ぶね。パスタとかに入れても旨いし、そのまま御浸しにしても旨いだろうね。他に何か一緒に食べるのかい?」

店主がお勧め攻撃の弾を詰め始めた。

ここで迂闊な答えを出すと、これも必要あれも必要と大量に買わされる。


「そうですね、家で作り置きしているものと合わせようかなと。今日はこれだけお願いします」

男は答える。

既に料理はあると言われると、店主もお勧めができない。


「やられたね、こりゃ。はいよ、葉の花一つね」

とサッと会計を済ませる。

どうも、と言いながら男はその場を立ち去る。


「さて、酒は…あ、頼んでいたやつが合うかな。そろそろ届くかな」

先日、男に酒の旨さを教えた友人から連絡が来た。

曰く、現在出張で京都にいるらしく、伏見の酒を土産に送るが希望のものはあるか、とのことだった。

それに対して、男は人生で初めて旨いと感じた日本酒を所望した。


男が初めてその酒を飲んだのは大学4年の時。

卒業間際の年末年始、男は友人たちと京都に旅行に来ていた。

その際に買い物客でごった返す錦市場の酒屋でコップ売りしていた酒がこの日本酒だ。

当時はカクテルばかり飲んでいて日本酒の旨さが分からなかった男だったが、すっきりと飲みやすく酒臭い嫌な感じもしないこの酒に男は惚れ込み、その場で自宅用の瓶も購入したほどだった。


男はそんなことを思い出しつつ、家路につく。



家に着くと、ちょうど配達員が玄関の前に立っているところだった。

男は急いで家に入り、荷物を開ける。

想像通り友人からの日本酒である。


「おお、これこれ」

男はその四合瓶を食卓に置いておく。

台所に戻り、食材を並べていく。


【菜の花の辛子和え】

・菜の花

・醤油

・みりん

・辛子


辛子和えとは御浸しに辛子を加えてピリリとした風味を足したものである。

その御浸しは出汁と醤油とみりんをベースに湯掻いて水切りした食材を浸した料理だ。

菜の花は湯掻くと茹で汁に旨味がよく染み出すため、出汁の代わりになるのだ。


まず、菜の花を湯掻くところから。

葉や蕾の部分と茎の部分とで茹で上がる時間が異なるため、全体を半分に切り分ける。

茎の方を先に沸騰した湯に入れて1分、続いて葉や蕾の方を入れて30秒湯掻く。

湯掻いた葉の花は冷水で締めておく。


続いて漬け汁。

タッパなどの容器に先程の茹で汁100ccに対して醤油、みりん、辛子を大さじで半分ずつ混ぜる。

できた漬け汁に先程締めた葉の花を入れて、冷蔵庫で15分ほど。

15分経ったら皿に盛り付けて、完成だ。


辛子和えと日本酒、そして切子を食卓に並べる。

ひやりと若干の冷気が漂う辛子和えを眺めながら、男は日本酒を切子に注いで一口含む。


「んぐ…んぐん…はぁー、懐かしい…」

男が学生時代に飲んだものと同じ、純米極辛の日本酒である。

極辛、と言ってもカッと熱くなるような辛さではなく、酸味も少々あり、すっきりとしたキレの良い風味だ。

酒っぽい臭さもあまり無い割に米の甘さと旨さは感じられる酒だ。

あまり主張の激しいアテに合わせるのは勿体ない酒だが、今回の相方はちょうど良いと言えるだろう。

男は葉の花を一口食べる。


「あむ…もにゅもにゅ…んぐん…ん、辛っ」

菜の花らしいほろ苦さと出汁、醤油、みりんの旨さが口の中に優しく満ちる。

しかし、男は辛子の辛さに慣れていない。ツンとした痛みが鼻から抜ける。

悶絶しつつも、男は日本酒を一口追いかけた。


「んぐ…ふはぁ…染みる」

すっきりとした味わいが辛子の痛辛さをほぐす。

辛子和えと日本酒による柔らかな五味が口の中を満たす。

男は更に一口辛子和えを食べて再び悶絶した。



食べ終わって、男は先程までの眠気が無くなっていることに気付いた。


「春の苦さと辛子が目覚ましになったかな」

男はそう思いつつ、食後の後片付けを進める。

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