第38話 ブリ大根
「…え、これブリじゃないのか…?」
12月も上旬から中旬に移る頃の金曜日。
男はいつものスーパーで首を傾げていた。
目の前には一本の魚と"ハマチ"と書かれた札。
男はその魚を見て既視感を感じていた。
「…スズキの時も似たようなこと無かったか?」
男が感じた既視感はスズキを買った時のものだ。
スズキもブリも出世魚だ。スズキの時は、サイズが小さめで、一つサイズが下のフッコではないか、という疑惑があった。
ブリに関しては、関東では小さい稚魚であるモジャコから、ワカシ、イナダ、ワラサと来て、最後に80cmを超えるとブリという名前になる。
しかし、目の前のものは60cm弱、呼び名としてはイナダやワラサが正しい。
即ち男の認識は間違いである。まずブリではない。
しかし、男の住む関東での呼び名とも異なる。
これは…と男が悩んでいると、
「あ、いつもありがとうございます。どうです?良いハマチが入ったんですよ」
と店長が声をかけてくる。
このタイミングで声をかけてくるのも、スズキの時と既視感がある。
そう男は感じつつも、
「ですね。しっかり太ってて良い魚です。ところでこれってブリじゃないんですか?」
と聞いてみる。
「あぁ、ちょっと上の世代の方じゃないと分からなかったですかね?昔はこのサイズの養殖物をハマチと呼んでたんです。ブリは…もっと大きいサイズなので、どっちにしてもこれはブリじゃないですね」
と店長は返す。
男は自分の無知を恥入りつつ、なるほどと返した。
店長の言う通り、関東ではイナダやワラサと同程度のサイズの天然物をハマチと呼んでいた。
元は関西での出世前の呼び名だったが、そちらでの養殖が盛んで関東に多く出荷されていたため、その呼び名が定着したらしい。
「まぁ、ブリには及びませんが、こちらも脂が乗って美味しいですよ。いかがです?」
店長が聞く。
男は改めてそのサイズを見る。大きい。一人暮らしには食べ切れないほどに。
「うーん、ちょっと大きいですよね…切り身ってないですか?」
男が聞き返す。
「切り身は売り切れてまして…アラならありますよ。そちらは本当のブリから切り出したものです」
と店長が答える。
「アラですか…」
魚のアラは旨みが強い分、臭みも強く下処理が必要だ。男もそれを理解している。
しかし、
「ではそれを買います」
下処理の手間を気にする男ではなかった。
男は店長に軽く頭を下げ、冷蔵棚に向かう。
そこにはぶつ切りのブリのアラのパックがあった。量はかなり多い。一人暮らしで2~3食の量だ。
男はそれを手に取り、少し思考した後、野菜コーナーに向かい、大根もカゴに入れる。
ブリ大根を作るつもりだ。
切らしている調味料もいくつか買い足す。
男は酒類の棚でも料理酒を手に取りカゴに入れた。
と、男は再び考え込む。酒は何にしよう、と。
ブリ大根は和食だ。男は和食には日本酒を合わせる傾向にある。
しかし、ブリは脂乗りが良く、味付けも和食の中では濃い目だ。
そういう時に男が選ぶものは、
「まぁ、ビールで良いか」
若干思考停止の気もあるが、確かに日本の淡麗なビールとブリ大根は合うだろう。
男はビールをカゴに入れてレジへと向かった。
「…連絡先を…じゃなくて…えーと…」
レジではいつもの女性が何かを考え込んでいるようでブツブツと独り言をしている。
男はタイミングが悪かったか、と思いながらも、仕方無いかとカゴをレジに置いた。
「あっ!いらっしゃいませ!気付かなくてすみません…」
女性は、慌ててレジに品物を通し始める。
品物を通している最中、女性は何かを口にしようとして躊躇っていたが、中々言葉にならない。
が、全ての品物を通した時点でついに、
「あの…お願いがあるんですけど…」
と声に出した。
「はい、何でしょう?」
と男も聞く。
この時男は、また何かの食材のレシピを頼まれるのか、と考えていた。
しかし、
「…あ…えと…あ…すみません、何でも無かったです。大丈夫でした」
と女性は答えた。
男は、そうですか、と言いながら首を傾げつつも会計を済まして家路についた。
その後、
「君、大学生だったよね?」
と、店長が女性に近付いて言ってきた。
「連絡先の交換なんて今時中学生や高校生でもさっさと済ませるよ?」
と店長は続ける。
「言わないでください…」
意気消沈した女性が言う。
「まぁ、前も言ったと思うけどクリスマス・イブに予定が無い子は強制的にバイト入ってもらうからね。決まってないのは君だけだから」
と店長はニヤニヤしながら言ってその場を立ち去った。良い性格である。
一方、男は自宅に着き、クシャミを一つ。
「あっくしょい!あー、体を冷やしすぎたか…」
と言いながら、冷蔵庫にビールを入れ、台所に食材を並べる。
・ブリのアラ
・大根
・醤油
・砂糖
・酒
・水
・生姜
ブリ大根は下拵えしたブリと大根を一緒に煮るだけで出来上がる、比較的簡単な煮物料理だ。
というか煮物料理全般が簡単なので男はよく拵えている。
下拵えは丁寧に、これを守れば簡単に旨くなる。
まず、下拵えからだ。
ブリのアラは400gほど。平たい皿に並べ、塩を振って15分置いておく。
その間、大根半分の皮を剥き、銀杏切りにする。
生姜も皮を剥いて1かけ程薄切りにする。
15分経った辺りでブリに熱湯をかけ、すぐに冷水にさらす。霜降りと言って魚の臭みやヌメリを取るのに使われる手法だ。
霜降りにしたブリは流水にさらしながら、残った汚れやヌメリを指で落とす。これで下拵えは完了だ。
次に煮込み。ここは個人のこだわりが出る所だ。
男は常に、①火の通りにくいものを先に煮る、②最初の煮汁は薄く、後から味付けして濃くする、の2点を基本に煮物を調理している。
と言う訳でまずは大根から。鍋に切った大根とそれが浸るほどの水を入れて中火にかける。この時水の量を測っておく。今回は600cc程度だ。
火にかけてから20分後、ブリ、生姜、先程の水の1/4程の料理酒を入れ、強火にする。
アクが出てきたら取り除き、中火にして落し蓋をし、15分ほど煮込む。
最後に味付けだ。
落し蓋をしてから15分ほど経ったら、大さじで砂糖を4つ、醤油を5つ入れて、鍋をゆすりながら全体に馴染ませる。
そのまま落し蓋をして更に10分煮る。
10分後、落し蓋を外して余分な水分を飛ばすために更に5分煮込む。
その後、皿に盛り付けて、完成だ。
冷蔵庫からビールを取り出し、ブリ大根と共に食卓に並べる。
盛り付けたブリ大根がてらてらと光り、砂糖と醤油の甘じょっぱい香りを立たせている。
男はその香りを肴にビールを飲んだ。
「んぐ…んぐ…ふはぁ〜…」
いつものビールの味だ。
本場のヨーロッパ各国のビールと比べれば深みやコクは薄いものの、淡麗でスッキリとした味わいだ。
苦味のキレも良く、日本の食によく合う。
男はブリを口に入れた。
「むぐ…むぐ…んぐん…」
醤油と砂糖の甘じょっぱさを感じる。
そこに、ふわりと解けたブリから脂の旨味が広がってくる。
生姜の香りも広がり、なかなかに食い気をそそる。
続いて大根も食べてみる。
「むぐ…じゅるっ…むぐ…むぐ…んぐん…」
大根に閉じ込められた水分が多く、口から溢れそうになる。
中まで味が染みた大根は水分とタレを十分に吸って、大根自体の旨みと共に口内を満たしてくれる。
男は笑みをこぼしつつ、ビールを更に追いかけた。
「んぐ…んぐ…んぐ…くはぁー!」
旨さでいっぱいになった口内を淡麗なビールが流していく。
次の一口を迎え入れる準備ができたということだ。
男は更にブリ大根を食べ進めた。
食後、男はうつらうつらとしつつ窓から外を見た。
向かいの家がクリスマスの飾り付けをしている。
「もうそんな時期か。うちも準備しないとな」
男はそう考えると、スマホを取り出してECサイトで何やら注文をし始めた。
届くのは来週。一体何が届くのか。
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