第20話 スズキのポワレ
「…大物が置いてある…」
男が呟いた。
7月も下旬の祝日金曜日、時刻は16時を過ぎた辺りだ。
いつものように、何を飲もうか、何をアテにしようか、と考えながらスーパーの中を歩き回っていたところで、鮮魚のコーナーでそれに出会った。
「スズキだ…」
男が"大物"と呼んでいたのは夏の風物詩、スズキ。タイやヒラメと並んで代表的な白身魚だ。
そんなスズキが1本丸々スーパーの鮮魚コーナーにあるのだ。
この辺りの地域では切り身では売っていても、1本で売っているのは珍しい。
しかし、
「いや、これスズキか…?」
男が疑問を呈したのはそのサイズである。
スズキは出世魚だ。男の住む関東では、小さい方から、セイゴ、フッコ、スズキ、と呼び方が変わる。
基本的にスズキは60cm以上のものを呼ぶが、男の目の前にあるものはそれを満たしていない。サイズで言えば40~50cm、フッコの大きさだ。だが、ラベルには"スズキ"と書いてある。
「いつもありがとうございます。あ、そのフッコですか?」
男が首を傾げていると、店長が声をかけてきた。
「あ、やっぱりこれフッコですか。スズキと書いてあるんですが…」
男も返す。
「業者がスズキだって言って卸してきたんですよ。もしかしたら地域によってサイズも変わるのかな?って思ったんで、スズキのラベルのまま出しましたが、納得はしてないんですよね。なので、お安くしておきました」
と、店長が答える。
確かにスズキにしては安い。50cm程のサイズで1,000円を下回っている。
一介の店長に価格を決める権限まであるのか、と男は考えたが、面倒そうなので聞くのを止めた。
「ではスズキということで、買わせていだきます」
と男はスズキをカゴに入れた。
同時に、何の酒に合わせようか、と考え、つい酒屋の方向をチラ見する。
店長もそれに気付いたのか、
「ありがとうございます。よろしければお買い上げの後、寄る所があるなら一旦お預かりしますか?」
と返してくる。
本当にこの店長はどこまで権限を持っているのだろうか。ともあれ、男としてはありがたい申し出なので、お願いします、と言い、調味料等をカゴに入れてレジに向かった。
レジではいつもの女性がカゴの中身に目を丸くした。
先述の通り、この辺りの地域では切り身では売られていても丸のまま売られることはあまりない。
今回は特にこのサイズだ。この女性もあまり見たことないのだろう。
驚いた顔をしつつもレジに通して会計を済ませる。
会計後、店長がこちらの方にやってきて、
「お預かりしますか?」
と聞いてくる。
本当に預かってくれるのか、と男は思ったが、店長の向こう側に貼り紙が見えた。
「お荷物お預かりサービス実施中」
貼り紙にはそう書いてある。
男は、なるほど、と思い、店長に渡した。
そのまま、近くの酒屋に向かう。
「こんにちは」
入店と当時に男は挨拶する。
「いらっしゃい。お、久しぶりだね」
女店主が声をかける。
「何を買うんだい?」
店主が続けて言う。
「フ…スズキが手に入ったので、それに合わせる酒をと思いましてね」
男はフッコと言いそうになったが、見栄をはった。
「へぇ、スズキ。この辺りじゃあまり売られていないよねぇ。煮ても良し、焼いても良し、揚げても良し。あ、刺し身も良いね。どんなの買ったんだい?」
と店主が聞く。
「いや、まるまる一本買ってきたんですよ。調理法も酒に合わせて決めようかと思ってまして」
と、男が答える。
その時、店主の目が丸くなり、
「あんた、肉や野菜ばかり扱ってる人だと思ってたけど、魚も捌けるの?色々できるね。…んー、酒に合わせて料理を決めるってまた難しい注文だね。何してもうまい魚だから…」
と返して、ブツブツ言いながら店内を回り始めた。
実を言うと男はあまり魚を捌いたことがないが、再び見栄をはって黙ることにした。
と、店主は店の中ほどの棚で足を止める。
「お客さん、例えばフレンチとかどうだい?」
棚の上の方を見上げながら店主が聞く。
「フレンチですか。良いですね、スズキだったらムニエルにポワレと、あぁ、夢が広がりますね」
と男が返す。
頭の中ではカリッとした焼き上がりに黒いソースがかかっている様を思い浮かべる。
「そう、まさにムニエルとかポワレとか!軽めのソーヴィニヨン・ブランが入荷できてね、アッサリとした味付けには合う白ワインよ。フランスはロワール地方の上物!」
店主がスラスラとその酒の良さを伝えながらワインの瓶を取り出す。
男は瓶が置いてあったところの棚のラベルを見る。
払えるが、微妙に厳しい金額が書いてある。
うーん、と男は唸る。
男はそこまでワインに詳しい訳ではない。
なので、高いワインの味が自分に分かるか心配なのだ。
男はふと、棚の隣の瓶を見た。
先程のワインと同じブドウの品種と産地だ。味や風味は近いだろう。
それでいて値段は半額、十分手を出せる。
「あの隣のやつとかどうですか?」
と男が聞く。
「あっちかい?んー、まあ、悪くはないか。値段も手頃だし、あっちにする?あっちだったらムニエルとかは重くなっちゃうから、やるならポワレね」
と店主が返す。
「スズキのポワレに白ワインですか。良いですね。では、そのワインをお願いします」
と男が返し、会計を済ませる。
店を出る際に、毎度あり、と快活な声が聞こえ、男は会釈で返した。
先程のスーパーに戻り、店長に声をかけ、スズキを返してもらい、家路につく。
家に着き、ワインを冷蔵庫に入れ、引き出しを開けて以前買ったバルサミコ酢を取り出す。
そして台所にて食材を並べる。
・スズキ
・塩
・胡椒
・オリーブオイル
・バルサミコ酢
・料理用赤ワイン
・蜂蜜
・バター
ポワレとはフレンチの料理法の一つだ。
しかし、料理人によって認識が異なり、これといった具体的な料理法が定まっていない。
ただ、フライパンに油を敷いて、弱火でじっくり焼くことを指すことが多い。また、焼いている際に油を上からかける手法があるのも特徴だ。
今回はスズキをポワレにし、そこにバルサミコソースをかける、という寸法だ。
とにかくスズキを捌かなくては始まらない。
突然だが、男の家には魚を捌くのに適した用具が無い。三徳包丁と精々キッチンバサミだけだ。また、捌いた経験も以前のアジ以来無いのでネットで調べて対応する。男の頭には"気合"と"根性"という言葉が浮かんでいた。
男はこれら三徳包丁、キッチンバサミ、ネット、気合、根性の5つを使って捌き始めた。
まず、ウロコを取り、ヒレを切り落とし、内臓と血合いを除いて、頭とカマを落とす。ここまでが下処理。ちなみに内臓を落とすところで、男は浮き袋の処理に20分もかかっている。不器用である。
そして、中骨に沿って、腹、背、背、腹と切っていき、3枚におろす。
最後に腹骨を削ぎ落とし、身の中央の小骨に沿って切り離したら、さくが取れる。
今回はポワレなので皮は残す。
さくからポワレ用に大きめに身を切り出す。
切り身に塩と胡椒を振り、フライパンにオリーブオイルを敷く。
切り身を皮目を下にしてフライパンに置き、中火にかける。
ジューと焼ける音が聞こえ始めたら弱火にして焼いていく。その間、オリーブオイルをスプーンですくって上からかけていく。そのまま焼くと反ってしまうので、たまにフライ返しで押さえつける。
8分ほど焼いたら裏返して、さらに2分火にかける。
その後フタをして火を止め、1分蒸らす。
蒸らし上がったら皿に移す。
ここからソース作り。スズキを焼いていたフライパンは洗わずに、バルサミコ酢と赤ワインを大さじ1ずつ、蜂蜜を小さじ1、そしてバターを適当にスプーン1杯ほど投入し、バターが溶けて全体が混ざるまで火にかける。
そうしてできたソースをスズキの周りに丸く垂らして、完成だ。
グラスと冷やした白ワイン、そしてスズキのポワレをテーブルに並べ、席につく。
まずは白ワインをグラスに注いで一口。
「んく…っあー…軽いな。飲みやすい」
青々としたハーブや柑橘のような風味が口の中に広がる。とても爽やかだ。
アッサリとした軽口でスイスイと飲める。
男は続いてポワレをまずは何も付けずにそのまま食べる。
「カリッ…むぐむぐ…うん、ちょうど良い焼き上がりだ」
皮目はカリッとしつつ、身はフワフワだ。
白身魚らしい淡白な味わいが白ワインに合う。
しかし、これでは若干物足りないので今度はバルサミコソースを付けて食べてみる。
「カリッ…むぐむぐ…んん〜…」
男は飲み込んだ後、静かに微笑んだ。
程よい酢と赤ワインの酸味と蜂蜜の甘みが淡白なスズキの味にしっかりと乗り、味わいを深くする。
そこに白ワインを口に含む。
「クイッ…んぐ…っはぁ〜…」
白身魚の味わい、ソースの酸味と甘み、白ワインの爽やかな風味が口腔と鼻腔を満たす。
男はにんまりと笑った。
男は再びワインを口に含み、更に食べ続けた。
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